日光街道を歩く2-②越ケ谷宿から粕壁宿
越ケ谷宿
前回に引き続き、越ケ谷宿から粕壁宿を目指します。
蒲生の一里塚を過ぎ、しばらく進むと道路端に小さな祠を見つけます。不動明王道標です。
享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねています。隣には、正徳3年(1713)建立の笠付青面金剛像庚申塔があります。
左甚五郎の彫刻がある清蔵院
新道と交差する辻に「清蔵院」があります。
清蔵院は、天文3年(1534)の創建で、山門は寛永15年(1638)に建てられています。「山門より先に入ることを禁じる」と書かれた貼紙があり、少し残念な気持ちになりました。
金網で囲われた龍の彫刻は、日光東照宮に名作を残した名人左甚五郎の作と伝えられているそうです。夜な夜な山門を抜け出し、畑を荒らしたところから金網で囲われたと言われています。
武田勝頼の遺児「千徳丸」の供養塔がある照蓮院
しばらく県道49号線沿いに歩きます。右手に「照蓮院」が見えてきます。
天正10年(1582)、武田勝頼が自刃すると、家臣が遺児の千徳丸を瓦曽根村に連れて帰り、潜居していましたが千徳丸は早世してしまいます。
蔵造りの商家が残る越ケ谷宿
旧商家「太物荒物店塗師屋市右衛門」跡です。蔵造りの商家と蔵を残しています。漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商っていました。越ヶ谷は染物業が盛んだったと伝えられています。
塗師屋の隣には、日用雑貨を扱う鍜治忠商店。蔵造りの商家を残している鍛治忠商店は江戸期には鍛冶屋だったそうです。
今でも、蔵造りの旧商家が街道沿いに建ち並んでいるので、江戸時代の宿場の風情を感じさせてくれます。
越ヶ谷宿に残る旧商家を活用して様々な取組も行われているようです。
越ヶ谷宿には、徳川家康、秀忠の鷹狩りの休泊所として元荒川近くに越ヶ谷御殿がありました。明暦3年(1657)の振袖火事で江戸城が全焼すると、急遽越ヶ谷御殿を解体し、江戸城の復興にあてたという記録が残されています。
街道沿いの河内屋旅館は、創業300年と伝わる江戸時代からの老舗の旅籠で、今も旅館を営んでいます。日光街道での宿泊に利用したいですね。
元荒川に架かる大橋です。川辺に咲く菜の花の黄色と緑のコントラストが綺麗ですね。
大沢村の総鎮守の香取神社。風に揺れる鯉のぼりが気持ちを和ませてくれます。
香取神社の彫刻から見える越ケ谷の染物産業
慶応2年(1866)建立の奥殿外壁には、紺屋の作業風景が精巧に彫刻されています。越ヶ谷が染物業の盛んだった土地であることが分かります。
紺屋の作業風景が精巧な彫刻で描かれています。
古奥州道道標
東武スカイツリーライン の高架を潜ると、元荒川の河川敷が見えてきます。堤防の目線の位置に「古奥州道道標」があります。道標には「右じおんじ のじま道」と刻まれています。
宮内庁埼玉鴨場
その河川敷の一角に厳格な門に閉ざされている施設があります。正面の門の奥にある施設は「宮内庁埼玉鴨場」です。
鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)に皇室用の遊猟場として建設されたものです。約11万7千㎡の敷地の中に約1万2千㎡の鴨池があります。
旧街道の道路脇に庚申塔がありました。小さな祠の中に宝永7年(1710)建立の青面金剛像庚申塔が安置されています。
庚申塔の先に東武スカイツリーラインの踏切があります。踏切の前で電車が通り過ぎるのをジッと待っているとき、その角に小さな居酒屋の看板が目を引きました。「かんかん」。確かに踏切が目の前なので、誰となく命名したのでしょうね。
旧街道にはこのように歩道がなく、緩やかにカーブしている道が結構多いので注意して歩きます。
しばらく歩くと、再び国道4号線と合流します。国道沿いに大枝村の鎮守、大枝香取神社があります。ちょうど五穀豊穣の祭祀が行われていました。隣には、歓喜院という寺院があります。昔ながらの祭事の風情があって懐かしさを感じました。
国道の標識を見ると気が遠くなるような距離が。まだまだ先は長い。
芭蕉が宿泊した東陽寺
この日は気温が30度と、4月としては初めて記録されるほどの猛暑日です。午後2時を過ぎた辺りで体力もいよいよ限界となりました。
このお寺は一宮の交差点近くにある「東陽寺」です。
一宮の交差点で斜め左に進みます。その角に芭蕉が宿泊した「東陽寺」があります。境内の寺碑に「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれています。
大塚家具の匠大塚を構える春日部
粕壁の宿場のメイン通りに「匠大塚本店」が聳え立っていました。ここは「父娘戦争」の行方に注目が集まる「大塚家具」の「匠大塚本店」です。東京ドームの2倍の広さを持つ日本最大規模の大塚家具の老舗がここにあったのですね。思わず写真に収めてしまいました。
粕壁宿
小沢本陣跡を通り過ぎます。宿場町の中心とあってよく整備されています。
天保5年(1834)建立の道標があります。
道標の表には「西南いハつき(岩槻)北日光 東江戸右之方陸羽みち」と刻まれています。建物は「田村荒物店」で、裏には豪壮な家屋と蔵が残されています。
新町橋(西)の交差点に「佐渡屋敷」の土蔵(国の登録有形文化財)があります。戦前まで浜島家が米穀商を営んでいました。
旧街道を離れ、春日部駅に向かいました。次回はここから出発です。
草加宿から越ケ谷宿のアクセスポイント
草加宿から越ケ谷宿、粕壁宿までの距離は19㎞ですが、実際の歩きは6時間で24㎞となりました。
日光街道を歩く2-①草加宿から越ケ谷宿
草加宿
東武スカイツリーラインの草加駅で下車し、日光街道ウォークの2日目のスタートです。草加駅には「祝 草加市制60周年」の横断幕が張られています。
藤城家住宅
日光街道の宿場草加宿のほぼ中央に藤城家住宅があります。江戸時代の宿場町の面影を今に伝える貴重な建物です。平成26年に国の有形文化財に登録されています。
清水本陣跡
草加宿の清水本陣跡。宝暦4年(1754)に大川家から本陣職を譲り受けています。
本陣跡の近くにある茶屋風造りの休憩所。トイレやベンチも整備されているので、休憩には最適です。
草加せんべいの老舗「元祖源兵衛せんべい」
草加宿と言えば、草加せんべいが代名詞。街道沿いに江戸時代から創業している老舗せんべい屋が点在しています。こちらは、「元祖源兵衛せんべい」。
テレビでお馴染みの草加せんべい志免屋
こちらも草加せんべいの老舗の「草加せんべい志免屋」。「モヤモヤさまぁ~ずz」(テレビ東京)や「若大将のゆうゆう散歩」(テレビ朝日)でも放送されている人気店です。
草加宿開祖大川図書が創建した東福寺
東福寺は、慶長11年(1606)草加宿開祖の大川図書により創建されています。東福寺山門は瓦葺きの四脚門で、天井の絵様彫刻も大変見事でした。彫工後藤常重による彫刻で、元治2年(1865)の刻銘があります。
山門の天井に施された彫工後藤常重による彫刻。
鐘楼にも絵様彫刻が見られます。「文久2年7月再造立」(1862)の刻銘があります。
東福寺の本堂
本堂にも龍の彫刻が見られます。目が生き生きしています。
東福寺にある大川図書の墓
大川図書は、草加宿開拓者の一人で、小田原北条氏に仕えていました。徳川家康の天下統一後、朋友の伊奈備前守の計らいにより草加の地に土着し、新田の開拓、農業の奨励、寺院の建立などの功績を残しています。大川本家が代々の草加宿本陣を務めていました。
草加宿には、江戸時代の宿場町の面影を残す建物がいくつか残されています。
久野家(大津屋)住宅
この建物は、久野家(大津屋)住宅。記録によりますと、宿場は開宿以来4回ほど大火や震災にに見舞われ、その度毎に蘇ってきたそうです。家伝によれば、この家は、安政2年(1855)の江戸大地震や明治3年(1870)の大火にも免れて、宿場の変遷を見続けてきたようです。
草加せんべい発祥の地
街道と新道が交差する場所に「草加せんべい発祥の地」の石碑が建てられています。
札場河岸公園 と松並木
綾瀬川に沿って「札場河岸公園」があります。札場屋野口甚左衛門の私河岸で、江戸との舟運が盛んであったことが分かります。公園には各所に芭蕉にちなんだ碑が残されています。
ちょうど満開の藤棚を見ることができました。
火の見櫓見学OK
札場河岸公園には、江戸時代の面影が感じられる「火の見櫓」が建てられていました。急な階段ですが展望階まで上がることができます 。
火の見櫓から見た景色です。綾瀬川ぞいに整備された松並木が延々と続いています。
日本の道百選「日光街道の松並木」
この日光街道の松並木の道は、日本の道百選に選ばれています。
松並木の途中には太鼓橋(矢立橋)があります。
地元の方にとって、綾瀬川沿いの松並木は、とても気持ちの良い散歩道です。
もう一つ太鼓橋がありました。百代橋とあります。
綾瀬川に架かる橋も風情があります。綾瀬川沿いの松並木は、天和3年(1683)関東郡代伊奈半右衛門が大雨の度に流路を変える綾瀬川の河川改修をした際に植栽したもので、当時から「千本松原」として名所となっていました。
松並木の途中には、石仏石塔群があります。祠の中にある石塔には水神と刻まれています。馬頭観世音像は、寛政7年(1795)に建立されていたことが分かります。
蒲生の一里塚
綾瀬川は、草加と越谷を分ける境界です。蒲生大橋を渡ると「蒲生の一里塚」があります。
藤助河岸跡
蒲生大橋の袂に「藤助河岸跡」があります。高橋藤助の私河岸が復元されたもので、江戸への年貢米の積み出しが行われていました。
越ケ谷宿
藤助河岸跡の前には、青い越ケ谷宿という看板が置かれた老舗酒屋があります。ここから粕壁宿を目指して、越ケ谷宿の街道を歩き続けます。
草加宿から越ケ谷宿 アクセスポイント
日光街道を歩く1-② 千住宿から草加宿
千住宿
千住大橋の青物問屋「やっちゃ場」
千住大橋を渡り、国道4号線から旧街道の千住仲町商店街に入っていきます。
この辺りはかつて「やっちゃ場」と言われていた場所で、青物問屋が軒を連ねていました。ここにも芭蕉の句碑「鮎の子のしら魚送る別哉」が建てられています。
かつての青物問屋の蔵を資料館にしている「千住宿歴史プチテラス」。
当時のやっちゃ場の様子を伝える貴重な写真や資料が置かれていて、無料で見学することができます。
道標がありました。「旧日光道中」「是より西へ大師道」と刻まれています。
戊辰戦争戦死者の供養塔がある不動院
商店街から路地に入ったところに「不動院」があります。
ここには戊辰戦争の戦死者や飯盛女の供養塔が建てられています。
境内に入り向かって右側に、大きな供養塔があります。
供養塔の正面には「南無阿弥陀仏」横には「藝州」と刻まれています。
この供養塔は、千住口から戊辰戦争に従軍した藝州藩(広島藩)の軍夫、従事者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものと解説板に記されています。供養塔の台座には氏名も刻まれていました。
徳川家の御殿だった「赤門寺」
不動院の近くには三宮神山大鷲院勝専寺があります。
通称「赤門寺」と親しまれています。江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠、家光、家綱らが使用していました。
賑やかな千住の宿場町通り
しばらく歩くと 商店街を分ける交差点があります。
右手には北千住駅の大きな駅ビルが見えます。ここから商店街は賑やかな「宿場町通り」に変わります。
千住高札場の跡は、千住本町公園として活用されています。
横山家は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家です。
戸口は、一段下げて造るのが特徴です。それは、お客様をお迎えする心がけの現れとされています。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは紙漉問屋を営んでいました。
慶応4年(1868)5月の上野戦争で敗退する兵士が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根などがあり歴史を感じることができます。
安養院の仲良し地蔵尊とかんかん地蔵尊
荒川の手前に安養院があります。境内には「仲良し地蔵尊」と「かんかん地蔵尊」があります。中央の二体が仲良し地蔵尊です。左の地蔵尊は1664年(寛文4年)に、右の地蔵尊は1670年に建立されています。白っぽい地蔵尊が、小石で叩くと願いが叶うという「かんかん地蔵尊」です。
荒川放水路(大正13年に開削された人口河川)に架かる千住新橋から東方向を撮りました。
旧道の途中に「石不動尊」があります。
堂内に耳の病に霊験あらたかな石造耳不動尊像が安置されています。堂前には「子育八彦尊道是より二丁行」とあります。
将軍家御成通松並木跡
梅島駅を越え、島根の交差点の先に「将軍家御成橋 御成通松並木跡」の標柱があります。その先にある「国土安穏寺」までの御成道となっていました。
増田橋の交差点に道標があります。「増田橋跡 北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれています。
小塚原刑場の刑死者の菩提寺「法華寺」
竹の塚を越えた場所に法華寺があります。小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていました。境内には無縁塔があります。
東京都と埼玉県の境となる毛長川を渡ります。谷塚駅の近くに「冨士浅間神社」があります。瀬崎村の総鎮守です。
火あぶり地蔵尊
その先の交差点に「火あぶり地蔵尊」があります。奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主に暇を願い出るものの許されません。そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり、家に帰れると思い込み放火してしまい、「火あぶりの刑」となってしまいます。村人が憐れみ供養のために地蔵を祀りました。
草加宿
今様草加宿
旧道との追分の場所に「今様草加宿」の大きな標柱があります。ここで左に折れます。
草加宿でのお泊りに最適な「旅館埼玉屋」さん。
その先に草加市役所があります。
市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋の跡。その入口の角に地蔵尊があります。
草加せんべいで有名な草加宿
1日目のゴール「草加駅」に到着。お土産に「いけだ屋」の草加せんべいを買いました。駅前には、高層のマルイとイトーヨーカドーがあります。駅前周辺の開発が進んでいて賑さを感じました。・・・予想通り、一日中花粉症で悩まされました。
千住宿から草加宿のアクセスポイント
日光街道を歩く1-① 江戸日本橋から千住宿
江戸日本橋
日光街道は魅力満載のベストコースです
日光街道の特徴は、日光東照宮への街道として歴代将軍の社参、諸大名の参詣、そして庶民の物見遊山で賑わい、発展したこと。また、一方で幕末には旧幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽・伏見の戦いに続き、小山の戦い、宇都宮城の戦いなど一連の戊辰戦争の舞台ともなった街道でもあります。そういう意味では、徳川家の盛衰を象徴する街道とも言えるかもしれませんね。
街道歩きにとって日光街道はとても歩きやすいコースの一つです。その理由は、厳しい山道や峠道がなく、概ね平坦な道であることです。また、街道沿いにはJRや東武鉄道がたえず併行して走っていることから、アクセスにも、飲食にも支障がなく、街道デビューに挑戦しようと思っている方にとってもベストコースと言える街道です。
観光という面でも、華やかな江戸日本橋からスタートし、旅の後半は、日光街道の象徴でもある日光杉並木を歩くことでクライマックスを迎え、荘厳な日光東照宮で締めくくるという醍醐味も味わえます。
さらに、2018年は、明治維新・戊辰戦争から150周年に当たります。日光街道を歩きながら、北関東、東北各地で起きた戊辰戦争の足跡を目にすることができるところも見逃せません。
江戸日本橋から千住、草加、古河、宇都宮を経て日光までの二十一次、約150㎞の日光街道ウォークのスタートです。
出発地点は、五街道共通のスタート地点、江戸日本橋から。そして、1日目のゴールは草加宿です。
澄み切った青空に桜が満開です。心配なのは、この時期にピークを迎える花粉症。ティッシュを片手にさぁ出発することにします。
日本橋三越本店の右側を真っ直ぐに進みます。
日本橋室町の辺りは、江戸時代、魚河岸があったことから鰹節問屋、海苔問屋、芝居小屋などが軒を連ね、賑わいをみせていたエリアです。
現在は、coredo室町が賑わいをつくっています。
室町三丁目の交差点を右折して、小伝馬町、浅草橋方面に直進します。
途中の昭和通りは地下通路を潜って渡ります。江戸時代からの老舗「小津和紙」のビルを通り過ぎます。
「日本橋」界隈や「小津和紙」は、東野圭吾さんの小説や映画で大ヒットした「麒麟の翼」にも登場してきますね。小津和紙では和紙の紙漉き体験や小津資料館の見学も行なっています。
江戸伝馬町牢屋敷跡の大安楽寺と十思公園
旧日光街道の近くにある「大安楽寺」は、江戸伝馬町牢屋敷跡の前に立地していて、境内には刑死者を供養する「延命地蔵尊」があります。
江戸伝馬町牢屋敷跡は、現在「十思公園」として、都心のサラリーマンの憩いの場所となっています。
公園内には、安政の大獄で斬首された吉田松陰の「終焉之地碑」があります。多くの幕末の志士たちが斬首された安政の大獄は、幕末維新を迎える大きな時代の節目となりました。
伝馬町で行われる処刑の合図となった「石町時の鐘」が公園内にあります。また、隣接の十思スクエア別館には小伝馬町牢屋敷展示館があり、自由に見学することができます。
公園内にある鐘(写真)は、刑の執行当日、刻限を意図的に遅らせたことから「情けの鐘」と呼ばれていたものです。
桜に染まる神田川
歌川広重は、名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いていますが、今も衣料繊維問屋が軒を連ねています。
その先に、浅草橋があります。この写真は浅草橋から神田川を撮ったものです。桜の花びらが川面に季節感を漂わせています。神田川は、この先で隅田川に合流します。
浅草橋の袂に浅草見附跡があります。江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれていた場所です。振袖火事の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため2万人以上の犠牲者が出ています。
伊能忠敬も通った浅草の天文台痕
蔵前一丁目の交差点に「天文台痕」の解説板があります。
天文方の高橋至時が天文観測を行なっていた所です。高橋至時は、17年をかけて日本全土を実地測量し、初めての実測による日本全図を書いた 伊能忠敬の師匠でした。
伊能忠敬も日々、深川の自宅からここまで通って学んでいたのでしょう。伊能忠敬はここで学んだ技術を元に、日光街道から奥州街道を通って、東北、北海道へと実測の旅に出掛けています。今年は、伊能忠敬没後200年の年。
浅草橋の辺りは、人形の久月などの老舗や、プラモデルやオモチャの問屋が軒を連ねているエリアです。バンダイの本社もここにあります。
江戸時代からの老舗「駒形どぜう」
「駒形どぜう」は、創業享和元年(1801)どじょう料理の老舗。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いと「どぜう」の3文字に改称したと伝えられています。
日本一の観光名所「浅草寺雷門」
駒形橋西詰の交差点を直進すると浅草寺雷門の正面に着きます。今日も外国人観光客で賑わっています。
隅田川の桜祭りと東京スカイツリー
この写真は、セーヌ川から見たエッフェル塔の写真。ではありません(笑)。隅田川から見た東京スカイツリーの写真です。この日、隅田川ではちょうど「桜橋桜祭り」が行われていました。
意外と知られていませんが、隅田川堤に桜を植えたのは、八代将軍徳川吉宗なんです。
ユニークな寺院「待乳山聖天」は良縁成就のパワースポット
待乳山聖天は歴史も古く、由緒ある寺院ですが、ユニークなのは、お供え物が「大根」というところ。寺務所で大根が売られているのです。大根には、心の迷いを取り除き心身の健康と良縁成就、夫婦和合にご利益があるそうです。隠れたパワースポットですね。
寺務所でお供え物として売られている大根は時価です。野菜が高い時は400円でした。
大根の絡み具合から良縁成就、夫婦和合にご利益があることがわかります。やはり、パワースポットですね。
社務所の横から広々とした庭園に降りることができます。しだれ桜が満開でした。浅草の人力さんが必ず寄る隠れた名所。
池波正太郎生誕地跡
待乳山聖天の入口近くに、小説「鬼平犯科帳」で有名な池波正太郎の生誕地跡があります。浅草には「池波正太郎記念文庫」もあるので、併せて見学してみるのもオススメです。
旧日光街道に沿って歩いていくと、「山谷堀公園」があります。
江戸時代には、新吉原遊廓への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言っていました。
界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったということです。
招き猫がシンボルの今戸神社は縁結びの神様
山谷堀の近くに「今戸神社」があります。特に女性に人気の縁結びの神様です。待乳山聖天に並び、こちらも浅草の人力さんが必ず案内している場所です。
この辺りは「今戸焼発祥之地」で、江戸時代に初めて「招き猫」が作られたことでも有名なんです。本堂でお詣りすると子供の背丈ほどある大きなペアの招き猫が鎮座しているのが見えますよ。今戸神社のシンボルになっています。
とても愛嬌のある招き猫が人気を博している由縁でもあるのでしょうね。猫好きにはたまりません。
沖田総司の終焉の地
「今戸焼発祥之地」碑の隣に、新撰組一番隊長「沖田総司終焉之地」碑が建っています。今戸神社と新撰組に何やら関係がありそうですね。
解説板によると、「沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて沒したと伝えられている」と書かれていました。
松本良順は徳川家茂の侍医として京都に帯同していた時に新撰組の治療にも当たっていたので、縁のある新撰組が江戸に戻ってからも結核の沖田総士の治療を続けていたのではないかと思います。ちなみに、松本良順はこの後、戊辰戦争時に従軍し、幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏しています。
あしたのジョーの「泪橋」
旧日光街道を進むと、「泪橋」の交差点に着きます。この先にある小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをした所から付けられているそうです。あしたのジョーが今にも登場してきそうな雰囲気のある街並みです。
南千住駅に向かう跨線橋から撮りました。前方に見えるのは高層マンションが建ち並ぶ北千住駅周辺です。この辺りの街並みは近年大きく変貌を遂げています。
小塚原刑場跡の首切り地蔵
跨線橋を下りると、小塚原刑場跡があります。処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたそうです。延命寺にある「首切り地蔵」は寛保元年(1741)に刑死者供養のために造立されたものです。
幕末の志士とプロレスの神様の墓
回向院には、安政の大獄で斬首された吉田松陰の墓や蘭学者杉田玄白等が刑死者を解剖した場所であることから翻訳した「解体新書」のプレートが掲げられています。
幕末の志士たちが眠る墓地に、何とプロレスの神様「カールゴッチ」のお墓がありました。力道山とも戦い、アントニオ猪木氏等が尊敬していたジャーマンスープレックスの創始者のカールゴッチです。
亡くなったのは、2007年7月28日だったのですが、その10年後に日本に移住していたことから新しくお墓を建てられたようです。墓前には高価なワインボトルがいくつも並んでおりました。
カールゴッチの暮石の隣には、鼠小僧次郎吉の墓があります。
その隣には、幕政の改革で開国論を唱え、安政の大獄で斬首された福井藩奥医師の橋本左内の墓があります。
その隣には、同じく安政の大獄で斬首された吉田松陰の暮石があります。現在は、松陰神社に遺骨が収められているそうです。
解体新書はここから
蘭学者杉田玄白、前野良沢が刑死者を解剖し、翻訳した「解体新書」のプレートが掲げられています。蘭学の事始めの場所ですね。
彰義隊が眠る円通寺
上野戦争の弾痕跡が残る黒門
上野戦争で亡くなった彰義隊の遺体はそのまま無残にも放置されていました。見かねた円通寺の住職はその遺体を葬い、この地に埋葬されました。多くの旧幕臣の墓石や慰霊碑がここに眠っています。
また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
南千住の素盞雄(すさのお)神社
再び旧日光街道に戻り、南千住の交差点の直近くに「素盞雄(すさのお)神社」があります。境内には、「小塚原」の地名の由来となった「小塚」や大銀杏、文政三年(1820)に建立された「芭蕉旅立記念碑」などがあります。
ここで、隅田川に架かる千住大橋を渡ります。この橋は昭和2年に造られたものです。
芭蕉「奥の細道」旅立ちの場所
千住大橋を渡り終えると「奥の細道矢立初めの地碑」があります。芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立ちます。その際に詠んだ句は、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」。ようやく千住宿に着きました。