日光街道を歩く4-②古河宿から野木宿・間々田宿

古河宿

前回は、2018年5月14日、朝8時半にJR東北線栗橋駅を下車し、栗橋宿から歩き始め、中田宿を通り、古河宿まで行きました。今回は、引き続き、古河宿から間々田宿までをご紹介します。

古河堤提灯もみ祭り発祥の地碑

「古河堤提灯もみ祭り」とは、長い竹竿の先に提灯を付け、大勢で激しく揉みあいながら提灯の火を消し合う奇祭で古河が発祥の地とする石碑が日光街道に置かれています。

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 「武蔵家本店」は、創業百年の鰻料理店。この辺りは、遊郭があった場所です。

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 この通りを「よこまち柳通り」と呼んでいます。

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鷹見泉石の墓がある「正麟寺」

 「正麟寺」には、鷹見泉石の墓があります。晩年は、古河の居宅で蘭学に勤しみ安政5年(1858)に没しました。享年74歳でした。

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 今でも、生花が手向けられているのを見て、改めて鷹見泉石のお人柄を偲ぶことができたように感じます。

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本成寺」は、古河藩5代藩主土井利益の生母 (法清院)の墓があります。

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 「史跡 栗橋道」の道標がありました。

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 お昼は 「久エ門手打ちうどん

途中、美味しそうな手打ちうどんのお店「久エ門手打ちうどん」を発見。

今日は、5月中旬にもかかわらず気温はすでに30度近くになっています。こういう時は、喉元に優しい冷たいうどんが一番。看板には、「昔懐かしい なまず天ぷら」と書かれていました。この辺の名物だったのかもしれませんね。

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私は、シンプルに「ざるうどん」です。美味しかったですよ。鳥の唐揚げも評判のようです。 

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 野木宿

旧道と国道4号線が再び合流する所に「野木神社」の鳥居があります。

「野木神社」には、日露戦争開戦2年前の明治35年(1902)、「のぎ」の縁から陸軍大将乃木希典が参拝し、「指揮用のサーベル」を奉納しています。

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しばらく国道4号線を歩きます。日本橋から国道4号線で来ると、65キロに当たる場所なんですね。小山まであと12キロです。

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野木宿道標

野木宿の道標がありました。道標には「是より太平山道」と刻まれています。この道は、栃木で例幣使街道に通じていて、日光とを短絡する裏道でもありました。また、江戸時代に太平山神社の信仰の厚さを知ることもできます。

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観音堂

道標の近くに「観音堂」があります。

境内には嘉永3年(1850)建立の十九夜供養塔や寛政12年(1800)建立の馬頭観音世音等がある。この辺りが野木宿の日光北口で、土塁と矢来柵があったそうです。

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 源頼義、頼家父子が「前九年の役」凱旋の折に勧請し、友沼村の総鎮守となった「正八幡宮

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 田んぼと青空

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十九夜塔

この「 十九夜塔」は、明治十二年(1889)の建立で、如意輪観音像が陽刻されています。

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 間々田宿

乙女交差点にある歩道橋から撮った「乙女河岸道」。慶長5年(1600)小山評定石田三成との決戦を決意した家康は思川の乙女河岸から江戸に下ったとされています。

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 間々田駅前のロータリーに建てられた「蛇がまいたの像」は、間々田の蛇祭りのシンボル。蛇祭りは、他の地域でも見られますが、五穀豊穣や魔除けを願って古くからの伝統行事なのでしょう。お祭りは、毎年5月5日の子供の日に行われるそうです。

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間々田駅

本日は、JR東北線の間々田駅で終了としました。 青空の下、快適な歩き旅でした。

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今回は、栗橋駅を8時半に出発し、間々田駅に3時に着きました。歩いた距離は24.1キロ。古河宿で歴史博物館や文学館、美術館などを見学したので、のんびりした一日となりました。

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日光街道を歩く4-①栗橋宿から中田宿・古河宿

栗橋宿

静御前が祀られている栗橋駅からスタート 

2018年5月14日、朝8時半にJR東北線栗橋駅を下車し、前回に引続き栗橋宿からのスタートです。前日までの豪雨から一転して、本日は一日好天の予報が出ています。

利根川に沿った栗橋の宿場には昭和22年のカスリーン台風の洪水の痕を残すように、電柱の高さ2メートルほどの所に赤いテープが巻かれています。

 街道から利根川の堤防に上がる場所に八坂神社があります。栗橋宿の総鎮守です。ユニークなのは、狛犬が「鯉」になっていること。

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狛犬が「鯉」の八坂神社

利根川の洪水の際に鯉が「ご神体」を運んできたことに由来しています。 

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 栗橋宿西本陣跡は発掘調査中です

現在、利根川堤防の大規模工事が行われている最中です。その折には、宿場の街道の一部(栗橋宿西本陣跡)が堤防として埋められる予定になっているのです。

現在、宿場に残された文化財を後世に伝えるための発掘調査中でした。

この写真は発掘作業の現場。これまでに栗橋宿最大の建物の基礎や建築部材、高価な漆の茶碗などが出土されているそうです。

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日光街道唯一の関所「栗橋関所跡」碑

 堤防の下に「栗橋関所跡碑」があります。日光街道唯一の関所で利根川岸にありました。番士は四家が勤め、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていたようです。

この辺りは堤防の大規模工事が終わったばかりのようで、敷石も新しいものです。

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かつては房川の渡し

 利根川橋の中程から上流を撮った写真です。利根川の水量の多さに驚かされます。

利根川は、大水上山に源を発して、流末は鹿島灘に注いでいます。昔から坂東太郎と呼ばれる暴れ川です。

江戸時代には橋はなく、「房川の渡し」という舟渡しでした。将軍の日光社参りの際は51艘の舟が並べた舟橋を渡していたようです。

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中田宿

静御前が葬られている光了寺

 利根川を渡ると、中田宿です。明治末期に行われた利根川河川改修によって中田宿の街並みは利根川下の河原になってしまいました。

しばらく県道228号線を歩いた先に光了寺があります。

静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)がこの地に移転しています。静御前後鳥羽上皇より賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」などの遺品が保存されています。

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歩道には、植栽したばかり松並木が続いています。

江戸時代には「中田の松原」と言われ、「東海道にもこれほど綺麗な松並木はない」と言われていましたが、戦時中に「松根油」採取のために伐採されてしまったようです。 

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 しばらく歩くと、道標が民家の角にありました。

「史跡 祭禮道 原町口」と刻まれています。古河の雀神社の祭礼の時に、混雑を避けるため、旅人の迂回路として置かれたようです。

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古河宿

古河宿に入りました。

解説版によると、江戸時代、古河宿では松並木が日光街道沿いに5キロにわたってあったそうです。街道沿いには、所々に史跡案内を兼ねた常夜灯が置かれています。

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 鷹見泉石記念館

街道をしばらく歩き、「古河歴史博物館」・「鷹見泉石(たかみせんせき)記念館」の案内表示にしたがって進むと、竹林が美しい「鷹見泉石記念館」が見えてきます。

古河藩家老の鷹見泉石が隠居後、過ごしていた居宅です。いかにも立派な武家屋敷の趣を感じさせてくれます。

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古河宿に行ったらぜひ訪ねたいと思っていたところが、この「鷹見泉石記念館」であり、鷹見泉石の生きかたに触れることができる古河歴史博物館でした。

 鷹見泉石は、古河藩藩主・土井利厚と利位(としつら)の2代にわたって仕えた家老で、蘭学、地理、歴史、天文学兵学博物学など幅広い知識を学んでいた方でした。「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれたほど泉石の手腕は優れ、藩財政の建て直しをはじめ、藩主・利位の大坂城代時代には「大塩平八郎の乱」を平定し頼も鷹見泉石の功績とされています。

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 建物は、寛永10年(1633)古河藩主土井利勝が、古河城の三階櫓を造った時の残り材を使って建てたと伝えられ、現在の建物の4倍の広さがあったと言われています。

いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名あまりを一時収容したこともあったそうです。

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 鷹見泉石記念館の前には親水公園が作られています。

この場所は、かつて古河城の堀があった場所で、発掘調査の後、堀を遺跡保存のために埋め戻し、その面影を残しているものです。

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古河歴史博物館

親水公園に隣接して「古河歴史博物館」があります。博物館の入り口に古河城出城諏訪曲輪跡碑が建っています。 

鷹見泉石は、隠居後も各界の著名人とも多彩な交流関係を築き藩に多くの重要な情報や資料をもたらしていました。

親交のあった人物には、幕府の要人・江川英龍蘭学者で泉石の肖像画を描いたことでも知られる渡辺華山、砲術家高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫、画家・司馬江漢らがいます。

泉石の著作や地図、絵画、書状などの多くは、古河歴史博物館に所蔵され、そのうち3153点が2004年に国の重要文化財に指定されています。

渡辺崋山が描いた鷹見泉石の肖像画東京国立博物館に国宝として収蔵されています。

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古河文学館

古河歴史博物館を後にします。

近くには、歴史作家の永井路子氏が寄贈された資料を元に設置した「古河文学館」や煉瓦造りの校門の「古河第一小学校」があります。

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古河第一小学校の校舎は比較的新しいのですが、歴史のある落ち着いた雰囲気を感じます。

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福法寺に移築した「古河城二の丸御殿口の乾門」

小学校の給食室からは、美味しそうな匂いが・・・匂いから献立を思い浮かべながら歩いていると、「福法寺」に着きました。

この山門は古河城二の丸御殿口の「乾門」を移築したものです。

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鷹見泉石生誕之地碑

 古河第一小学校敷地に隣接した場所に「鷹見泉石生誕之地碑」があります。残念ながら落書きがありました。

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永井路子旧宅

 この付近には、古い建物がいくつも保存されていて、街を挙げて郷土の歴史を大切にしているのが伝わってきます。

再び日光街道に戻るように歩いていると「永井路子旧宅」を見つけました。

永井路子の母方の実家のようですが、幼い頃から、この地で過ごしています。永井路子さんは歴史小説家で特に中世の小説を書いています。

随分前になりますが、『相模のもののふたち 中世史を歩く』有隣新書 1978年 のち文春文庫(『草燃える』の原作)を読んだことを思い出しました。

この建物は、古河文学館開館に併せて、別館として平成15年から開館しています。

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建物は、江戸時代末期の商家の佇まいです。 東日本大震災の時に被害があったため、修復改修工事を行い、再び平成24年に再開館しています。

古河文学館も永井路子氏の寄贈によって設置されているので、併せて旧宅見学もオススメです。旧宅ではお座敷や裏庭まで自由に見学させていただけます。

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古河街角美術館

その隣には、「古河街角美術館」があります。

古河市は芸術活動の盛んな地で、著名な芸術家を輩出しています。展示室では、古河市ゆかりの作家の作品を自由に見ることができます。 

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篆刻美術館

 古河街角美術館の隣には、「篆刻美術館」があります。

平成3年に日本で初めて篆刻専門の美術館として開館しています。建物は、大正9年に建築されたもので、国の登録文化財です。

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 お泊り情報:「ホテル山水」(ビジネスホテル)

日光街道金刀比羅宮を過ぎたところで、かぎ状に直角に曲がっています。

近くに、「ホテル山水」というビジネスホテルがあります。古河の街を散策するのにも便利なところです。

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 ホテルの前には、武家屋敷らしき建物があります。詳しいことはわかりません。

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 栗橋宿から中田宿、古河宿のアクセスポイント

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日光街道を歩く3-③幸手宿から栗橋宿

幸手宿

行幸橋と書いて「みゆきはし」と読みます。

明治8年(1875)に新権現堂堤が築堤され、翌年、明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄られたことから名付けられたものです。

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筑波道追分道標

中川に架かる行幸橋を渡ります。左に下る路地が旧街道です。

しばらく進むと、追分となり、安永4年(1775)建立の筑波道追分道標が建てられています。「左日光道」「右つくば道」とあります。道標通りに左の日光道を進みます。

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見渡す限りに田園風景が広がっています。

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旧街道の途中に時代を感じさせる一軒の商店が見えてきます。吉羽屋酒店です。この辺りの地名を「外国府間村(そとごうま)」といいます。

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外国府間村の鎮守「雷電社湯殿社」

旧街道を進むと、雷電社湯殿社に着きます。外国府間村の鎮守です。

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小右衛門の一里塚跡

その先に真光寺というお寺があります。その隣に小右衛門の一里塚跡があります。現在は、その跡に弁財天堂が建っています。

 

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この辺りの地名を「小右衛門村」といいます。

小右衛門とは、この地を新田に開拓した者の名から付けられたようです。旧街道の左手に門と白い蔵を残す旧家があります。

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権現川に沿って造られた国道4号線行幸堤としての役割も担っています。

旧街道は、その国道4号線に沿ってあります。今、東北新幹線の高架を潜るところです。

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栗橋大一劇場

突然目の前に「栗橋大一劇場」という大きな看板の建物が現れます。俗に言う「ストリップ劇場」でした。劇場の左に旧街道が続いています。

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会津見送り稲荷

しばらく進んだ所に「会津見送り稲荷」があります。民家の庭先にあるので見過ごさないようにしましょう。

会津藩士が道に迷った際に助けてくれた老人が狐の化身だったことから建てられたと言われています。また、この辺りに「名物栗餅」を商う茶屋が八軒あったと伝えられています。

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炮烙地蔵

会津見送り稲荷から500メートルほど進むと、「炮烙地蔵」があります。

近くにある「栗橋関所」の関所破りが「火焙りの刑」に処せられた刑場跡です。地蔵尊は刑死者供養のために造立されたものです。

「エボ地蔵」とも呼ばれていて、線香の灰をイボに付けると霊験新たかと言われています。

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栗橋宿

電柱の赤いテープはカスリーン台風の水位

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄えた宿場でした。

一方、利根川の氾濫により洪水の被害もありました。

電柱に巻かれた赤いテープは、昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の際に洪水となり、水位がここまで来たことを教訓として示しています。

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旧家には築地塀が見られます。

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栗橋宿の中程に来たところで、JR栗橋駅に向かうことにします。

静御前ゆかりの地

駅前に「静御前の墓」があります。

源義経の寵愛を受けた内妻の静御前が平泉に行く途中、義経討死の報を聞き、文治5年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げたと伝えられています。

この墓石は後享和3年(1803)関東郡代中川飛騨の守が建立したものです。

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静御前の墓です。この周りには義経招魂碑などが建てられています。

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栗橋駅

JR栗橋駅湘南新宿ライン東海道線に直通する上野東京ラインが通っているので、都内からの交通が便利です。

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粕壁駅を午前8時30分にスタートし、栗橋駅に午後2時に到着しました。約5時間ほどの街道ウォークとなりました。

歩いた距離は、25㎞です。時速約5キロで歩いたことになります。これは、結構速いペースです。

幸手宿から栗橋宿までのアクセスポイント 

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日光街道を歩く3-②杉戸宿から幸手宿

杉戸宿

杉戸宿を代表する豪壮な家屋と蔵を残している渡辺勘左エ門邸を過ぎ、次の幸手宿を目指します。

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国道4号線を通ったら見て!ペコちゃんとポコちゃん

旧道はここまで。ここから3kmほど国道4号線を歩きます。

沿道には大型ショッピングモールや街中でよく見かける外食チェーンの看板が目に入ります。その奥には、広大な田畑が構えています。

不二屋のペコちゃんポコちゃんが屋根に腰掛けてデート中。

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山田うどんの駐車場にある茨島一里塚跡

国道4号線の開発工事のため、恐らくこの付近の史跡らしきものは消滅しているものと思われます。

数少ない史跡のうち、「茨島一里塚」の解説板が「山田うどん」の駐車場内にありました。折角なので、ランチは山田うどんに。

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上高野小入口の交差点を左折し、東武日光線の踏切を渡ります。

目の前には、ショッピングセンター「JOYFUL HONDA」の黒く大きな建物がそびえ立っています。

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日光街道日光御成道の合流点

この写真は、振り返って撮ったものです。

向かって左手の道が歩いてきた日光街道の旧道で、直線に伸びている方が日光御成道です。つまり、日光街道日光御成道の合流点なわけです。

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合流点の近くに「太子堂」があります。

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源頼朝が奥州征伐の戦勝祈願をした神宮寺

太子堂の斜め向かいに「神宮寺」というお寺があります。

源頼朝が奥州征伐の途中で戦勝祈願をしたとされています。

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眼病にご利益のある螺(たにし)不動

幸手宿の入口となる「倉松川」の「志手橋」を渡ると神明神社があります。

その境内には、「螺(たにし)不動」があります。当時から豊かな田畑が広がっていたことが分かります。

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拝殿前の獅子が手にしているものは、どうやら御神体の螺(たにし)ではないかと思います。

解説板によると、螺不動では、螺の絵馬を奉納して祈願すると眼病にご利益があるそうです。江戸時代には神明神社の前に高札場が置かれていました。

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幸手宿

江戸宿場の面影を残すおしゃれなカフェ

街道沿いにある「上庄(うえしょう)カフェ」は、江戸の宿場の面影を残す国登録有形文化財です。

江戸末期に建築された岸本家住宅主屋(しゅおく)を移築したもので、築180年の重厚な蔵造りの構えでありながら、本格ピザや生パスタの他、手作りケーキが人気のお店です。

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明治の元勲が宿泊した「旅館 あさよろず」

旅館 あさよろず」は文政2年(1819)の創業。

板垣退助伊藤博文等が宿泊した老舗旅館。今も旅館業を営んでいます。最寄りの幸手駅までは徒歩5分です。

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幸手宿はシャッターアートが描かれた商店がいくつもあります。
「永文商店」は全国から集めたこだわりの酒と食材を販売しています。店正面のシャッターアートは見ることができませんが、2階建て側面の波トタンの壁は秀逸です。

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波トタンに描かれた芭蕉奥の細道

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本陣知久家跡

本陣知久家跡は、現在「うなぎ義語屋」です。初代の帯刀は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねていました。門構玄関付で建坪170坪余だったそうです。

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桜と菜の花で有名な「権現堂堤」

幸手宿の旧街道を離れ、しばらく国道4号線沿いを歩きます。中川に架かる行幸橋(みゆきばし)の手前には、長大な「権現堂堤」が築かれています。

江戸を洪水から守るために寛永18年(1641)に築堤されたものです。毎年4月初めには、桜と菜の花が咲き揃い、他県からも多くの観光客が集まりますが、5月初めのこの時期は、一瞬、森林と見間違えるほどの緑の帯が堤伝いに連なっています。

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4月初めには、1000本のソメイヨシノが1キロにわたって満開を迎えるそうです。(写真は観光協会)

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杉戸宿から幸手宿のアクセスポイント

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日光街道を歩く3-①粕壁宿から杉戸宿

粕壁宿

今日は、粕壁宿からのスタート。ゴールデンウィークの中日、明日から天気は下り坂。夕方には雨模様の予報なので、できるだけピッチは早めにする予定です。

春日部駅のシンボルは「クレヨンしんちゃん

東武野田線東武スカイツリーラインが乗り入れている春日部駅西口に降りてみると、「クレヨンしんちゃん」の物語の舞台だけあって色々な場所でキャラクターが使われています。

駅前のシンボルツリーの芝生にもしんちゃんの顔が。しんちゃんの野原家族の住所もクレヨンの語呂に由来する架空の『春日部市双葉町904』として住民登録されています。 

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粕壁宿の中心は、現在の春日部駅東口方面です。街の案内にも「クレヨンしんちゃん」が一役買っています。 

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粕壁宿の面影を残す建物が並んでいます

 日光街道沿いを歩いていると粕壁宿の面影を残す建物がいくつも目につきます。

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 公園橋(西)の交差点に建つ田村荒物店の土蔵

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 問屋場跡と言われているところです。問屋場とは、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設で、粕壁宿では、継送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていました。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く集まっていました。

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 永島庄兵衛商店は、慶長年間(1596〜1615)創業の米問屋。屋根に鍾馗像がのせられています。現在も営業されています。

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佐渡屋跡の建物です。戦前まで浜島家が穀物商を営んでいた時の明治時代前期築の土蔵(国登録有形文化財)が残されています。 

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春日部の地名の由来はここから

 日光街道新町橋(西)の交差点を右折するのですが、突き当りに見える最勝院に寄りました。

最勝院は日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置された場所で、「春日部」の地名由来となった春日部重行公の「墳塚」があります。

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 日光街道に戻り、大落古利根川に架かる新町橋から上流を眺めます。

江戸期には、上流に上喜蔵河岸(かみきぞうかし)があったそうです。河川にこれだけ水量があると台風の時期は洪水が心配になりますね。

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小渕一里塚跡

しばらく県道319号線を歩くと、江戸日本橋より9里目となる小渕一里塚跡があります。隣りには天保3年(1832)に建てられた庚申塔があります。

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小渕の一里塚跡の先に追分があり、道標が建てられています。 

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道標には、「左日光道中」と刻まれています。道標に従って、左の道を歩きます。しばらくすると国道4号線に合流します。

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芭蕉句碑がある観音院

国道4号線に合流して間も無く「観音院」が見えてきます。立派な楼門(仁王門)は、市指定有形文化財です。

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 境内には、芭蕉句碑「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」があります。芭蕉が当寺に宿泊したとも伝えられています。

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 「北緯36度線地球儀」モニュメント

広い歩道の中央に、春日部市と杉戸市の境界を示す「北緯36度線地球儀」モニュメントが置かれています。

北緯36度は、アリゾナ州にあるグランドキャニオンと同様と書かれていました。

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 堤根(南)歩道橋で国道4号線から旧街道に入ります。しばらく進むと九品寺があります。街道ぞいに道標を兼ねた庚申塔があります。説明板も建てられているのですぐ分かります。「左日光」「右江戸」と刻まれています。天明4年(1784)に堤根の村民42人が建立したものです。

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杉戸宿

銘酒「杉戸宿」の蔵元

 日光街道杉戸宿の面影が漂う建物が見えてきました。

最初に見えてくるのが関口酒造の建物です。創業文政五年(1822)、銘柄はその名も「杉戸宿」の蔵元です。

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格子の玄関がなんとも街道の旅らしい雰囲気を伝えてくれています。 

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 その先に、復元された杉戸宿高札場があります。

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超レトロな銭湯を発見

 道路の向かいに「巴湯」というレトロな銭湯を発見。創業は明治期で、現在の建物は、昭和初期なのだそうです。「お湯は100%井戸水、燃料は100%木材」がキャッチフレーズです。この辺りは、東武動物公園駅から徒歩10分の距離です。

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 本陣跡地前と言う交差点の門に「明治天皇御小休所趾」があります。

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杉戸宿の面影を残す建物

 渡辺金物店の建物です。平成に入って店は閉じていますが、代々受け継がれてきたたたずまいを感じます。

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 角穀屋跡です。米穀店だったそうで、商家と蔵が残っています。

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 渡辺勘左エ門邸です。豪壮な家屋と蔵を残しています。質屋業を営み、多数の小作人を抱えていたそうです。

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 粕壁宿から杉戸宿までのアクセスポイント

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日光街道を歩く2-②越ケ谷宿から粕壁宿

越ケ谷宿

前回に引き続き、越ケ谷宿から粕壁宿を目指します。

蒲生の一里塚を過ぎ、しばらく進むと道路端に小さな祠を見つけます。不動明王道標です。

享保13年(1728)建立の不動明王像の台石には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねています。隣には、正徳3年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔があります。

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左甚五郎の彫刻がある清蔵院

新道と交差する辻に「清蔵院」があります。

清蔵院は、天文3年(1534)の創建で、山門は寛永15年(1638)に建てられています。「山門より先に入ることを禁じる」と書かれた貼紙があり、少し残念な気持ちになりました。

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金網で囲われた龍の彫刻は、日光東照宮に名作を残した名人左甚五郎の作と伝えられているそうです。夜な夜な山門を抜け出し、畑を荒らしたところから金網で囲われたと言われています。

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武田勝頼の遺児「千徳丸」の供養塔がある照蓮院

しばらく県道49号線沿いに歩きます。右手に「照蓮院」が見えてきます。

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天正10年(1582)、武田勝頼が自刃すると、家臣が遺児の千徳丸を瓦曽根村に連れて帰り、潜居していましたが千徳丸は早世してしまいます。

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墓所には「千徳丸供養五輪塔」があります。

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蔵造りの商家が残る越ケ谷宿

旧商家「太物荒物店塗師屋市右衛門」跡です。蔵造りの商家と蔵を残しています。漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商っていました。越ヶ谷は染物業が盛んだったと伝えられています。

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塗師屋の隣には、日用雑貨を扱う鍜治忠商店。蔵造りの商家を残している鍛治忠商店は江戸期には鍛冶屋だったそうです。

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今でも、蔵造りの旧商家が街道沿いに建ち並んでいるので、江戸時代の宿場の風情を感じさせてくれます。

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越ヶ谷宿に残る旧商家を活用して様々な取組も行われているようです。

越ヶ谷宿には、徳川家康、秀忠の鷹狩りの休泊所として元荒川近くに越ヶ谷御殿がありました。明暦3年(1657)の振袖火事で江戸城が全焼すると、急遽越ヶ谷御殿を解体し、江戸城の復興にあてたという記録が残されています。

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街道沿いの河内屋旅館は、創業300年と伝わる江戸時代からの老舗の旅籠で、今も旅館を営んでいます。日光街道での宿泊に利用したいですね。

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元荒川に架かる大橋です。川辺に咲く菜の花の黄色と緑のコントラストが綺麗ですね。

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大沢村の総鎮守の香取神社。風に揺れる鯉のぼりが気持ちを和ませてくれます。

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香取神社の彫刻から見える越ケ谷の染物産業

慶応2年(1866)建立の奥殿外壁には、紺屋の作業風景が精巧に彫刻されています。越ヶ谷が染物業の盛んだった土地であることが分かります。

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紺屋の作業風景が精巧な彫刻で描かれています。

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古奥州道道

東武スカイツリーライン の高架を潜ると、元荒川の河川敷が見えてきます。堤防の目線の位置に「古奥州道道標」があります。道標には「右じおんじ のじま道」と刻まれています。

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 宮内庁埼玉鴨場

その河川敷の一角に厳格な門に閉ざされている施設があります。正面の門の奥にある施設は「宮内庁埼玉鴨場」です。

鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治37年(1904)に皇室用の遊猟場として建設されたものです。約11万7千㎡の敷地の中に約1万2千㎡の鴨池があります。

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 旧街道の道路脇に庚申塔がありました。小さな祠の中に宝永7年(1710)建立の青面金剛庚申塔が安置されています。

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 庚申塔の先に東武スカイツリーラインの踏切があります。踏切の前で電車が通り過ぎるのをジッと待っているとき、その角に小さな居酒屋の看板が目を引きました。「かんかん」。確かに踏切が目の前なので、誰となく命名したのでしょうね。

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 旧街道にはこのように歩道がなく、緩やかにカーブしている道が結構多いので注意して歩きます。

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 しばらく歩くと、再び国道4号線と合流します。国道沿いに大枝村の鎮守、大枝香取神社があります。ちょうど五穀豊穣の祭祀が行われていました。隣には、歓喜院という寺院があります。昔ながらの祭事の風情があって懐かしさを感じました。

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 国道の標識を見ると気が遠くなるような距離が。まだまだ先は長い。

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芭蕉が宿泊した東陽寺

この日は気温が30度と、4月としては初めて記録されるほどの猛暑日です。午後2時を過ぎた辺りで体力もいよいよ限界となりました。

このお寺は一宮の交差点近くにある「東陽寺」です。

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一宮の交差点で斜め左に進みます。その角に芭蕉が宿泊した「東陽寺」があります。境内の寺碑に「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれています。

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 大塚家具の匠大塚を構える春日部

粕壁の宿場のメイン通りに「匠大塚本店」が聳え立っていました。ここは「父娘戦争」の行方に注目が集まる「大塚家具」の「匠大塚本店」です。東京ドームの2倍の広さを持つ日本最大規模の大塚家具の老舗がここにあったのですね。思わず写真に収めてしまいました。

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粕壁宿

小沢本陣跡を通り過ぎます。宿場町の中心とあってよく整備されています。

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 天保5年(1834)建立の道標があります。

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 道標の表には「西南いハつき(岩槻)北日光 東江戸右之方陸羽みち」と刻まれています。建物は「田村荒物店」で、裏には豪壮な家屋と蔵が残されています。

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 新町橋(西)の交差点に「佐渡屋敷」の土蔵(国の登録有形文化財)があります。戦前まで浜島家が米穀商を営んでいました。

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 旧街道を離れ、春日部駅に向かいました。次回はここから出発です。

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草加宿から越ケ谷宿のアクセスポイント

 草加宿から越ケ谷宿、粕壁宿までの距離は19㎞ですが、実際の歩きは6時間で24㎞となりました。

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日光街道を歩く2-①草加宿から越ケ谷宿

草加宿

東武スカイツリーライン草加駅で下車し、日光街道ウォークの2日目のスタートです。草加駅には「祝 草加市制60周年」の横断幕が張られています。

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 藤城家住宅

日光街道の宿場草加宿のほぼ中央に藤城家住宅があります。江戸時代の宿場町の面影を今に伝える貴重な建物です。平成26年に国の有形文化財に登録されています。

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清水本陣跡

草加宿の清水本陣跡。宝暦4年(1754)に大川家から本陣職を譲り受けています。 

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 本陣跡の近くにある茶屋風造りの休憩所。トイレやベンチも整備されているので、休憩には最適です。

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草加せんべいの老舗「元祖源兵衛せんべい」

 草加宿と言えば、草加せんべいが代名詞。街道沿いに江戸時代から創業している老舗せんべい屋が点在しています。こちらは、「元祖源兵衛せんべい」。

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 テレビでお馴染みの草加せんべい志免屋

こちらも草加せんべいの老舗の「草加せんべい志免屋」。「モヤモヤさまぁ~ずz」(テレビ東京)や「若大将のゆうゆう散歩」(テレビ朝日)でも放送されている人気店です。

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 草加宿開祖大川図書が創建した東福寺

東福寺は、慶長11年(1606)草加宿開祖の大川図書により創建されています。東福寺山門は瓦葺きの四脚門で、天井の絵様彫刻も大変見事でした。彫工後藤常重による彫刻で、元治2年(1865)の刻銘があります。

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山門の天井に施された彫工後藤常重による彫刻。

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 鐘楼にも絵様彫刻が見られます。「文久2年7月再造立」(1862)の刻銘があります。 

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 東福寺の本堂

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本堂にも龍の彫刻が見られます。目が生き生きしています。 

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 東福寺にある大川図書の墓

大川図書は、草加宿開拓者の一人で、小田原北条氏に仕えていました。徳川家康の天下統一後、朋友の伊奈備前守の計らいにより草加の地に土着し、新田の開拓、農業の奨励、寺院の建立などの功績を残しています。大川本家が代々の草加宿本陣を務めていました。

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 草加宿には、江戸時代の宿場町の面影を残す建物がいくつか残されています。

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 久野家(大津屋)住宅

この建物は、久野家(大津屋)住宅。記録によりますと、宿場は開宿以来4回ほど大火や震災にに見舞われ、その度毎に蘇ってきたそうです。家伝によれば、この家は、安政2年(1855)の江戸大地震や明治3年(1870)の大火にも免れて、宿場の変遷を見続けてきたようです。

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 草加せんべい発祥の地

街道と新道が交差する場所に「草加せんべい発祥の地」の石碑が建てられています。

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札場河岸公園 と松並木

綾瀬川に沿って「札場河岸公園」があります。札場屋野口甚左衛門の私河岸で、江戸との舟運が盛んであったことが分かります。公園には各所に芭蕉にちなんだ碑が残されています。

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 ちょうど満開の藤棚を見ることができました。

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火の見櫓見学OK

札場河岸公園には、江戸時代の面影が感じられる「火の見櫓」が建てられていました。急な階段ですが展望階まで上がることができます 。

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 火の見櫓から見た景色です。綾瀬川ぞいに整備された松並木が延々と続いています。

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日本の道百選「日光街道の松並木」

 この日光街道の松並木の道は、日本の道百選に選ばれています。 

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 松並木の途中には太鼓橋(矢立橋)があります。

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 地元の方にとって、綾瀬川沿いの松並木は、とても気持ちの良い散歩道です。

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 もう一つ太鼓橋がありました。百代橋とあります。

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 綾瀬川に架かる橋も風情があります。綾瀬川沿いの松並木は、天和3年(1683)関東郡代伊奈半右衛門が大雨の度に流路を変える綾瀬川の河川改修をした際に植栽したもので、当時から「千本松原」として名所となっていました。

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 松並木の途中には、石仏石塔群があります。祠の中にある石塔には水神と刻まれています。馬頭観世音像は、寛政7年(1795)に建立されていたことが分かります。

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 蒲生の一里塚

綾瀬川は、草加と越谷を分ける境界です。蒲生大橋を渡ると「蒲生の一里塚」があります。 

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藤助河岸跡 

蒲生大橋の袂に「藤助河岸跡」があります。高橋藤助の私河岸が復元されたもので、江戸への年貢米の積み出しが行われていました。

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越ケ谷宿

 藤助河岸跡の前には、青い越ケ谷宿という看板が置かれた老舗酒屋があります。ここから粕壁宿を目指して、越ケ谷宿の街道を歩き続けます。

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草加宿から越ケ谷宿 アクセスポイント

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