日光街道を歩く5-②小山宿から新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿

小山宿 

小山といえば、徳川家康関ヶ原の戦いを決断した「小山評定」のイメージが強いのですが、幕末、戊辰戦争で凄まじい戦場となった場所でもあるのです。

戊辰戦争「小山の戦い」の舞台とは

慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡されます。

その頃、幕府歩兵奉行の大鳥圭介駿河台の自邸を離れ、墨田区太平の「報恩寺」に入っていました。

江戸開城に納得せず、徹底抗戦を志す土方歳三新撰組、伝習隊、桑名藩士らとともに、大鳥圭介は総督として日光を目指し、行動を起こしたのです。その先には、会津がありました。

集まった総勢2千数百人を3隊に編成します。先鋒は、会津藩士の秋月登之助を隊長に、土方歳三を参謀とした伝習隊第一・桑名藩士・新撰組で構成、中軍は、大鳥圭介を隊長に伝習隊第二が中心、後軍は、幕臣の米田桂次郎を隊長に歩兵第二連隊が中心となり別ルートで宇都宮、日光を目指したのです。

写真は、駅前上町の歩道橋から見た日光街道です。前方は宇都宮方面。

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 日光街道沿いには、「思季彩館」という観光交流センターがあります。残念ながら月曜休館でした。旧八百忠という商家と石蔵を利用した建物です。

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 旧幕陸軍の勝利に終わった「第一次小山戦争」

当時すでに宇都宮城は、新政府軍の管轄下に置かれており、新政府軍の軍監 香川敬三は旧幕陸軍を攻撃するため、宇都宮城から小山方面に進軍を命じます。

一方、旧幕陸軍の3隊と別ルートで出立していた旧幕府草風隊(西洋式調練をマスターした旧幕臣子弟200人)は、急ピッチで北上していました。

そして、4月16日正午頃、両軍の戦闘が開始されました。新政府軍は主に笠間藩兵で、武器は銃ではなく手槍だったため、最新兵器を持つ旧幕府草風隊に圧倒され、多くの死者を出すことに。勝利した旧幕府草風隊は栃木方面に進んでいます。

光照寺」の墓所には戊辰戦争で戦死した新政府軍笠間藩士の墓があります。

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旧幕陸軍の猛攻「第二次小山戦争」

4月17日、大鳥圭介が率いる旧幕陸軍中・後軍は小山を目指していました。前日に大敗を期した新政府軍は、彦根藩などの援軍を伴い先手を打って兵を宿場の各所に配備し、遊撃態勢をとります。

戦闘は、午前10時に開始。一時、新政府軍の銃攻撃に押されたものの、旧幕陸軍は応援態勢を継続したため、次第に新政府軍は前後を包囲される形となり、わずか1名を除き、隊長以下総員が戦死したと伝えられています。第二次小山戦争は午後2時に終結

日光街道の近くにある「常光寺」には戊辰戦争「小山の戦い」で被弾した痕跡を残す青銅阿弥陀如来像が所蔵されています。 

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旧幕陸軍の連勝「第三次小山戦争」

激戦を終え、旧幕陸軍は村民が炊き出した赤飯で戦勝を祝い、大鳥圭介は酒肴を振る舞いました。祝い酒で酩酊する兵士も少なくなく、新政府軍の逆襲を恐れた大鳥圭介は小山に布陣することなく、午後5時に出立することに。

その直後に、新政府軍が再度小山に襲撃をかけてきたのです。前日敗退した笠間藩兵と祖式金八郎の一隊でした。戦闘は、双方が銃で応戦する銃撃戦となり、銃撃戦で攻勢に立った旧幕陸軍は勢力を分散させ、新政府軍を追討し、戦闘は短時間で終結しています。二日間にわたる小山戦争は旧幕陸軍の勝利で終わっています。

日光街道に参道が面している「興法寺」は、嘉祥2年(849)創建の古刹で、元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。小山戦争では、ここも戦場となりました。

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 山門の先には見事な庭園と本堂があります。

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 境内にある「地蔵尊」には、戊辰戦争「小山の戦い」の被弾痕があります。

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地蔵尊の左側面のちょうど腰の部分に被弾して痕が見えます。

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 新田宿 

小山宿を後にしばらく歩き、羽川小学校を越えた所に、四脚門の本陣門を残した「青木本陣跡」があります。

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 日光街道の沿道に「吉田神社跡碑」があります。その路地に入った先に「羽川薬師堂」があります。

薬師堂には、「薬師瑠璃光如来像」が安置されています。境内の履屋には文政13年(1830)建立の十九夜塔と、安政4年(1857)建立の雨引観音が安置されています。

十九夜塔は、旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された塔のことです。月待行事とは、特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。十九夜講のほとんどは女人講、念仏講で、子安講といい、安産を祈願することもあるそうです。

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 小金井宿

小金井宿に入りました。JR東北本線小金井駅の近くに「小金井の一里塚」があります。日光街道をこれまで歩いた中で唯一両塚を残している貴重な史跡です。国の指定史跡となっています。

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 往時のままなので、日光街道の道幅を知る上でも重要な一里塚ですね。

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 真言宗の古刹「慈眼寺」です。

建久7年(1196)、新田一族の祈願寺として創建された寺院です。当時、境内には、御成御殿(御座所)が設置され日光社参りに将軍はここで昼食を摂っていました。

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大越本陣跡の前には、幕末に建てられた店蔵がいくつか並んでいます。いずれも安全対策上だと思いますが、ネットが設置されていました。

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 日光街道は、途中で国道4号線から分かれ笹原旧道に入ります。風景から往時の面影が感じられます。写真は、本陣大越家の蔵です。

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 栃木に入ってから麦畑をよく見るようになりました。もうすぐ収穫の時期なのだそうですが、栃木県の麦の生産量は全国で4番目で、二条大麦は全国で1位なのです。

その理由は、関東ローム層を黒ボク土が覆い、水はけもよく、また麦は成育中に根を深く張ることができることや、収穫期の6月は梅雨にかかり、本来、麦の収穫に雨は大敵なのですが、比較的県内では長雨が続かないという環境があっているのですね。

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 再び国道4号線に戻ります。しばらく歩き、国道352号線の交差点にかかる前に、青いトタン屋根に覆われた石仏石塔群が見えてきます。

宝永7年(1710)と享保3年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享4年(1747)建立の十九夜塔が旧道側を向いて祀られています。

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石橋宿

 石橋宿に入りました。日光街道に面して鳥居があります。参道脇には、弘化4年(1847)建立の二十三夜塔などがあります。

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 馬頭観音が祀られています。

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 雀宮宿

宇都宮市に入るなり、餃子の街らしい工場を発見。工場でも小売されていました。f:id:mondo7:20180522224846j:plain

 雀宮駅に到着。駅の外観が新しくオシャレな感じです。本日の歩き旅はここまでです。今回は、朝9時から夕方5時半まで歩きました。距離にして33キロ。お疲れ様でした。

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日光街道を歩く5-①間々田宿から小山宿

間々田宿

2018年5月21日、朝8時30分にJR間々田駅を降り、駅近にあるコンビニのイートインで100円ホットコーヒーと菓子パンをかじりながら、今日のウォーキングの作戦をあらためて練ることに。

まずは、「ちゃんと歩ける日光街道」(山と溪谷社)を開き、各宿場の見所を押さえ、ざっと歩行距離と到達時間を測る。およその時間は、無理のない時速4キロで計算することにしています。「今日の見所は、小山評定と戊辰の爪跡かな。次回の日光までの行程を考えると、何としても今日中に雀宮宿まで行きたい」と思いながら、旅支度を整えます。

小山市車屋美術館と小川家住宅

月曜日ということもあって、最初の訪問地「小山市立車屋美術館」は休館でした。

小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代にかけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。

 

 

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 休館ということなので、失敬して門扉の上から小川家住宅を撮ることに。

美術館では、古美術から現代美術まで幅広く小山市ゆかりの美術を紹介しているそうです。美術館は企画展により観覧料が変わるそうです。

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 間々田八幡宮

国道4号線をしばらく歩くと、沿道に「間々田八幡宮」の鳥居が建っています。

「間々田八幡宮まで500m」と表示。往復1キロということなるので少し考える。解説には、「嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なった」と書かれている。行くしかないでしょう!

曲がりくねった小道をしばらく歩くと、一帯とは隔絶された緑の濃い鎮守の森「間々田八幡宮」が現れます。

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 間々田八幡宮の創建は古く、今から千三百年前の天平年間に勧請されています。文治5年(1189)には、陸奥泰衡の乱に征伐の軍を率いた源頼朝が戦勝を祈願して松樹を植えたと伝えられています。

頼朝お手植えの松は四代目となって、ひょうたん池の縁にその姿を見ることができます。春にはひょうたん池の桜はライトアップされるようです。

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間々田駅前のロータリーで見かけた像「間々田のジャガマイタ」は、この神社に起源がありました。

約400年前から伝わる奇祭「 ジャガマイタ」は、田植えの季節を前に、五穀豊穣と疫病退散を祈願するお祭りとして伝承されています。

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 嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なったされる拝殿には見事な彫刻を見ることができます。

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 浅間神社の参道脇に「千駄塚古墳道標」があります。

履屋内には青面金剛庚申塔天保15年(1844)建立の六臂馬頭観音像が安置されています。

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「門外不出」の酒蔵「西堀酒造」

 間々田宿に酒蔵がありました。西堀酒造です。創業明治5年(1872)銘酒「若盛」「門外不出」「奥座敷」の蔵元です。

酒蔵の建物は国の登録有形文化財に指定されています。

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 沿道に安房神社の鳥居があります。天慶2年(939)藤原秀郷平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神としています。

小山氏や古河公方の信仰も篤かったそうです。「モミの群落」は市の天然記念物に指定されています。

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 国道4号線を離れて間も無く、立派な長屋門が見えてきます。

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小山宿

 国道50号線の高架を潜りしばらく行くと、天満宮があります。石鳥居は享和3年(1803)の建立です。この辺りが小山宿の江戸南口で、土塁や矢来柵がありました。

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小野塚イツ子記念館

 小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」の商標でしょうゆを醸造していました。2003年に死去した故小野塚イツ子さんの遺言で土地・建物等を小山市に寄贈され「小野塚イツ子記念館」として、れんが煙突、土蔵、旧しょうゆ工場は歴史遺産として保存されています。

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持宝寺の梵鐘

 持宝寺は、八代将軍吉宗の日光社参の際に休憩所になっていました。

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 境内にある梵鐘は寛政4年(1792)の鋳造で、市内では戦前に造られた梵鐘はここにしかありません。他は、第二次大戦の時に金属供出のため失われています。

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須賀神社

須賀神社に来ました。「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶3年(940)京都八坂神社を勧請し小山城の鎮守としています。

石田三成との決戦を決意した家康は、須賀神社に戦勝を祈願したと伝えられています。

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小山評定之碑

関ヶ原の戦いのドラマで必ず登場する舞台が小山。 鳥居の横に「小山評定之碑」があります。

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 参道の横にある石鳥居は承応2年(1653)に建立されています。

県内では日光東照宮にある四基の鳥居に次ぐ歴史があり、小山市指定文化財となっています。

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史跡小山評定跡と小山御殿跡

小山市役所庁舎の前に「史跡小山評定跡」があります。

ご存知の通り、小山評定は、1600(慶長5)年7月25日、会津の上杉討伐のために小山に来た徳川家康が、石田三成挙兵の報を受け、諸武将を集めて今後の方針を諮った軍議のことです。

この軍議で各武将が家康に従うことを誓約し、関ケ原の合戦に臨むことを決めたとされています。 

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小山評定が行われた縁起のよい場所として、徳川将軍家の日光社参の際の宿として「小山御殿」が置かれた場所でもあります。

見るからに老朽化している小山市役所庁舎の耐震化は大丈夫かなと思ってしまいました。庁舎の垂れ幕には、様々な大会に挑む小山市の代表スポーツ選手の名前が掲げられています。

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 小山市役所の隣に小山御殿跡があります。

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小山城(祇園城)址

 小山御殿の先に「小山城址」があります。小山城は、藤原秀郷の築城に始まり、小山氏の居城になった場所です。別名「祇園城」と呼ばれています。

徳川の時代になると譜代の本多正純が城主となり城下の整備をしましたが、元和5年(1619)に宇都宮城へ移封となり、小山城は廃城となっています。

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現在、小山城趾は城山公園として利用されています。 

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 小高い小山城址から望む思川。

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日光街道を歩く4-②古河宿から野木宿・間々田宿

古河宿

前回は、2018年5月14日、朝8時半にJR東北線栗橋駅を下車し、栗橋宿から歩き始め、中田宿を通り、古河宿まで行きました。今回は、引き続き、古河宿から間々田宿までをご紹介します。

古河堤提灯もみ祭り発祥の地碑

「古河堤提灯もみ祭り」とは、長い竹竿の先に提灯を付け、大勢で激しく揉みあいながら提灯の火を消し合う奇祭で古河が発祥の地とする石碑が日光街道に置かれています。

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 「武蔵家本店」は、創業百年の鰻料理店。この辺りは、遊郭があった場所です。

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 この通りを「よこまち柳通り」と呼んでいます。

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鷹見泉石の墓がある「正麟寺」

 「正麟寺」には、鷹見泉石の墓があります。晩年は、古河の居宅で蘭学に勤しみ安政5年(1858)に没しました。享年74歳でした。

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 今でも、生花が手向けられているのを見て、改めて鷹見泉石のお人柄を偲ぶことができたように感じます。

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本成寺」は、古河藩5代藩主土井利益の生母 (法清院)の墓があります。

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 「史跡 栗橋道」の道標がありました。

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 お昼は 「久エ門手打ちうどん

途中、美味しそうな手打ちうどんのお店「久エ門手打ちうどん」を発見。

今日は、5月中旬にもかかわらず気温はすでに30度近くになっています。こういう時は、喉元に優しい冷たいうどんが一番。看板には、「昔懐かしい なまず天ぷら」と書かれていました。この辺の名物だったのかもしれませんね。

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私は、シンプルに「ざるうどん」です。美味しかったですよ。鳥の唐揚げも評判のようです。 

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 野木宿

旧道と国道4号線が再び合流する所に「野木神社」の鳥居があります。

「野木神社」には、日露戦争開戦2年前の明治35年(1902)、「のぎ」の縁から陸軍大将乃木希典が参拝し、「指揮用のサーベル」を奉納しています。

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しばらく国道4号線を歩きます。日本橋から国道4号線で来ると、65キロに当たる場所なんですね。小山まであと12キロです。

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野木宿道標

野木宿の道標がありました。道標には「是より太平山道」と刻まれています。この道は、栃木で例幣使街道に通じていて、日光とを短絡する裏道でもありました。また、江戸時代に太平山神社の信仰の厚さを知ることもできます。

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観音堂

道標の近くに「観音堂」があります。

境内には嘉永3年(1850)建立の十九夜供養塔や寛政12年(1800)建立の馬頭観音世音等がある。この辺りが野木宿の日光北口で、土塁と矢来柵があったそうです。

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 源頼義、頼家父子が「前九年の役」凱旋の折に勧請し、友沼村の総鎮守となった「正八幡宮

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 田んぼと青空

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十九夜塔

この「 十九夜塔」は、明治十二年(1889)の建立で、如意輪観音像が陽刻されています。

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 間々田宿

乙女交差点にある歩道橋から撮った「乙女河岸道」。慶長5年(1600)小山評定石田三成との決戦を決意した家康は思川の乙女河岸から江戸に下ったとされています。

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 間々田駅前のロータリーに建てられた「蛇がまいたの像」は、間々田の蛇祭りのシンボル。蛇祭りは、他の地域でも見られますが、五穀豊穣や魔除けを願って古くからの伝統行事なのでしょう。お祭りは、毎年5月5日の子供の日に行われるそうです。

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間々田駅

本日は、JR東北線の間々田駅で終了としました。 青空の下、快適な歩き旅でした。

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今回は、栗橋駅を8時半に出発し、間々田駅に3時に着きました。歩いた距離は24.1キロ。古河宿で歴史博物館や文学館、美術館などを見学したので、のんびりした一日となりました。

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日光街道を歩く4-①栗橋宿から中田宿・古河宿

栗橋宿

静御前が祀られている栗橋駅からスタート 

2018年5月14日、朝8時半にJR東北線栗橋駅を下車し、前回に引続き栗橋宿からのスタートです。前日までの豪雨から一転して、本日は一日好天の予報が出ています。

利根川に沿った栗橋の宿場には昭和22年のカスリーン台風の洪水の痕を残すように、電柱の高さ2メートルほどの所に赤いテープが巻かれています。

 街道から利根川の堤防に上がる場所に八坂神社があります。栗橋宿の総鎮守です。ユニークなのは、狛犬が「鯉」になっていること。

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狛犬が「鯉」の八坂神社

利根川の洪水の際に鯉が「ご神体」を運んできたことに由来しています。 

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 栗橋宿西本陣跡は発掘調査中です

現在、利根川堤防の大規模工事が行われている最中です。その折には、宿場の街道の一部(栗橋宿西本陣跡)が堤防として埋められる予定になっているのです。

現在、宿場に残された文化財を後世に伝えるための発掘調査中でした。

この写真は発掘作業の現場。これまでに栗橋宿最大の建物の基礎や建築部材、高価な漆の茶碗などが出土されているそうです。

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日光街道唯一の関所「栗橋関所跡」碑

 堤防の下に「栗橋関所跡碑」があります。日光街道唯一の関所で利根川岸にありました。番士は四家が勤め、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まっていたようです。

この辺りは堤防の大規模工事が終わったばかりのようで、敷石も新しいものです。

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かつては房川の渡し

 利根川橋の中程から上流を撮った写真です。利根川の水量の多さに驚かされます。

利根川は、大水上山に源を発して、流末は鹿島灘に注いでいます。昔から坂東太郎と呼ばれる暴れ川です。

江戸時代には橋はなく、「房川の渡し」という舟渡しでした。将軍の日光社参りの際は51艘の舟が並べた舟橋を渡していたようです。

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中田宿

静御前が葬られている光了寺

 利根川を渡ると、中田宿です。明治末期に行われた利根川河川改修によって中田宿の街並みは利根川下の河原になってしまいました。

しばらく県道228号線を歩いた先に光了寺があります。

静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)がこの地に移転しています。静御前後鳥羽上皇より賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」などの遺品が保存されています。

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歩道には、植栽したばかり松並木が続いています。

江戸時代には「中田の松原」と言われ、「東海道にもこれほど綺麗な松並木はない」と言われていましたが、戦時中に「松根油」採取のために伐採されてしまったようです。 

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 しばらく歩くと、道標が民家の角にありました。

「史跡 祭禮道 原町口」と刻まれています。古河の雀神社の祭礼の時に、混雑を避けるため、旅人の迂回路として置かれたようです。

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古河宿

古河宿に入りました。

解説版によると、江戸時代、古河宿では松並木が日光街道沿いに5キロにわたってあったそうです。街道沿いには、所々に史跡案内を兼ねた常夜灯が置かれています。

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 鷹見泉石記念館

街道をしばらく歩き、「古河歴史博物館」・「鷹見泉石(たかみせんせき)記念館」の案内表示にしたがって進むと、竹林が美しい「鷹見泉石記念館」が見えてきます。

古河藩家老の鷹見泉石が隠居後、過ごしていた居宅です。いかにも立派な武家屋敷の趣を感じさせてくれます。

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古河宿に行ったらぜひ訪ねたいと思っていたところが、この「鷹見泉石記念館」であり、鷹見泉石の生きかたに触れることができる古河歴史博物館でした。

 鷹見泉石は、古河藩藩主・土井利厚と利位(としつら)の2代にわたって仕えた家老で、蘭学、地理、歴史、天文学兵学博物学など幅広い知識を学んでいた方でした。「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれたほど泉石の手腕は優れ、藩財政の建て直しをはじめ、藩主・利位の大坂城代時代には「大塩平八郎の乱」を平定し頼も鷹見泉石の功績とされています。

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 建物は、寛永10年(1633)古河藩主土井利勝が、古河城の三階櫓を造った時の残り材を使って建てたと伝えられ、現在の建物の4倍の広さがあったと言われています。

いくつも座敷のある長屋門もあって、元治元年(1864)には、天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名あまりを一時収容したこともあったそうです。

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 鷹見泉石記念館の前には親水公園が作られています。

この場所は、かつて古河城の堀があった場所で、発掘調査の後、堀を遺跡保存のために埋め戻し、その面影を残しているものです。

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古河歴史博物館

親水公園に隣接して「古河歴史博物館」があります。博物館の入り口に古河城出城諏訪曲輪跡碑が建っています。 

鷹見泉石は、隠居後も各界の著名人とも多彩な交流関係を築き藩に多くの重要な情報や資料をもたらしていました。

親交のあった人物には、幕府の要人・江川英龍蘭学者で泉石の肖像画を描いたことでも知られる渡辺華山、砲術家高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫、画家・司馬江漢らがいます。

泉石の著作や地図、絵画、書状などの多くは、古河歴史博物館に所蔵され、そのうち3153点が2004年に国の重要文化財に指定されています。

渡辺崋山が描いた鷹見泉石の肖像画東京国立博物館に国宝として収蔵されています。

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古河文学館

古河歴史博物館を後にします。

近くには、歴史作家の永井路子氏が寄贈された資料を元に設置した「古河文学館」や煉瓦造りの校門の「古河第一小学校」があります。

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古河第一小学校の校舎は比較的新しいのですが、歴史のある落ち着いた雰囲気を感じます。

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福法寺に移築した「古河城二の丸御殿口の乾門」

小学校の給食室からは、美味しそうな匂いが・・・匂いから献立を思い浮かべながら歩いていると、「福法寺」に着きました。

この山門は古河城二の丸御殿口の「乾門」を移築したものです。

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鷹見泉石生誕之地碑

 古河第一小学校敷地に隣接した場所に「鷹見泉石生誕之地碑」があります。残念ながら落書きがありました。

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永井路子旧宅

 この付近には、古い建物がいくつも保存されていて、街を挙げて郷土の歴史を大切にしているのが伝わってきます。

再び日光街道に戻るように歩いていると「永井路子旧宅」を見つけました。

永井路子の母方の実家のようですが、幼い頃から、この地で過ごしています。永井路子さんは歴史小説家で特に中世の小説を書いています。

随分前になりますが、『相模のもののふたち 中世史を歩く』有隣新書 1978年 のち文春文庫(『草燃える』の原作)を読んだことを思い出しました。

この建物は、古河文学館開館に併せて、別館として平成15年から開館しています。

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建物は、江戸時代末期の商家の佇まいです。 東日本大震災の時に被害があったため、修復改修工事を行い、再び平成24年に再開館しています。

古河文学館も永井路子氏の寄贈によって設置されているので、併せて旧宅見学もオススメです。旧宅ではお座敷や裏庭まで自由に見学させていただけます。

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古河街角美術館

その隣には、「古河街角美術館」があります。

古河市は芸術活動の盛んな地で、著名な芸術家を輩出しています。展示室では、古河市ゆかりの作家の作品を自由に見ることができます。 

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篆刻美術館

 古河街角美術館の隣には、「篆刻美術館」があります。

平成3年に日本で初めて篆刻専門の美術館として開館しています。建物は、大正9年に建築されたもので、国の登録文化財です。

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 お泊り情報:「ホテル山水」(ビジネスホテル)

日光街道金刀比羅宮を過ぎたところで、かぎ状に直角に曲がっています。

近くに、「ホテル山水」というビジネスホテルがあります。古河の街を散策するのにも便利なところです。

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 ホテルの前には、武家屋敷らしき建物があります。詳しいことはわかりません。

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 栗橋宿から中田宿、古河宿のアクセスポイント

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日光街道を歩く3-③幸手宿から栗橋宿

幸手宿

行幸橋と書いて「みゆきはし」と読みます。

明治8年(1875)に新権現堂堤が築堤され、翌年、明治天皇が奥州巡幸の際に立ち寄られたことから名付けられたものです。

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筑波道追分道標

中川に架かる行幸橋を渡ります。左に下る路地が旧街道です。

しばらく進むと、追分となり、安永4年(1775)建立の筑波道追分道標が建てられています。「左日光道」「右つくば道」とあります。道標通りに左の日光道を進みます。

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見渡す限りに田園風景が広がっています。

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旧街道の途中に時代を感じさせる一軒の商店が見えてきます。吉羽屋酒店です。この辺りの地名を「外国府間村(そとごうま)」といいます。

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外国府間村の鎮守「雷電社湯殿社」

旧街道を進むと、雷電社湯殿社に着きます。外国府間村の鎮守です。

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小右衛門の一里塚跡

その先に真光寺というお寺があります。その隣に小右衛門の一里塚跡があります。現在は、その跡に弁財天堂が建っています。

 

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この辺りの地名を「小右衛門村」といいます。

小右衛門とは、この地を新田に開拓した者の名から付けられたようです。旧街道の左手に門と白い蔵を残す旧家があります。

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権現川に沿って造られた国道4号線行幸堤としての役割も担っています。

旧街道は、その国道4号線に沿ってあります。今、東北新幹線の高架を潜るところです。

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栗橋大一劇場

突然目の前に「栗橋大一劇場」という大きな看板の建物が現れます。俗に言う「ストリップ劇場」でした。劇場の左に旧街道が続いています。

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会津見送り稲荷

しばらく進んだ所に「会津見送り稲荷」があります。民家の庭先にあるので見過ごさないようにしましょう。

会津藩士が道に迷った際に助けてくれた老人が狐の化身だったことから建てられたと言われています。また、この辺りに「名物栗餅」を商う茶屋が八軒あったと伝えられています。

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炮烙地蔵

会津見送り稲荷から500メートルほど進むと、「炮烙地蔵」があります。

近くにある「栗橋関所」の関所破りが「火焙りの刑」に処せられた刑場跡です。地蔵尊は刑死者供養のために造立されたものです。

「エボ地蔵」とも呼ばれていて、線香の灰をイボに付けると霊験新たかと言われています。

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栗橋宿

電柱の赤いテープはカスリーン台風の水位

栗橋宿に入ってきました。栗橋宿は利根川の舟運で栄えた宿場でした。

一方、利根川の氾濫により洪水の被害もありました。

電柱に巻かれた赤いテープは、昭和22年(1947)9月のカスリーン台風の際に洪水となり、水位がここまで来たことを教訓として示しています。

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旧家には築地塀が見られます。

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栗橋宿の中程に来たところで、JR栗橋駅に向かうことにします。

静御前ゆかりの地

駅前に「静御前の墓」があります。

源義経の寵愛を受けた内妻の静御前が平泉に行く途中、義経討死の報を聞き、文治5年9月15日(1189年)久喜市伊坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げたと伝えられています。

この墓石は後享和3年(1803)関東郡代中川飛騨の守が建立したものです。

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静御前の墓です。この周りには義経招魂碑などが建てられています。

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栗橋駅

JR栗橋駅湘南新宿ライン東海道線に直通する上野東京ラインが通っているので、都内からの交通が便利です。

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粕壁駅を午前8時30分にスタートし、栗橋駅に午後2時に到着しました。約5時間ほどの街道ウォークとなりました。

歩いた距離は、25㎞です。時速約5キロで歩いたことになります。これは、結構速いペースです。

幸手宿から栗橋宿までのアクセスポイント 

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日光街道を歩く3-②杉戸宿から幸手宿

杉戸宿

杉戸宿を代表する豪壮な家屋と蔵を残している渡辺勘左エ門邸を過ぎ、次の幸手宿を目指します。

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国道4号線を通ったら見て!ペコちゃんとポコちゃん

旧道はここまで。ここから3kmほど国道4号線を歩きます。

沿道には大型ショッピングモールや街中でよく見かける外食チェーンの看板が目に入ります。その奥には、広大な田畑が構えています。

不二屋のペコちゃんポコちゃんが屋根に腰掛けてデート中。

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山田うどんの駐車場にある茨島一里塚跡

国道4号線の開発工事のため、恐らくこの付近の史跡らしきものは消滅しているものと思われます。

数少ない史跡のうち、「茨島一里塚」の解説板が「山田うどん」の駐車場内にありました。折角なので、ランチは山田うどんに。

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上高野小入口の交差点を左折し、東武日光線の踏切を渡ります。

目の前には、ショッピングセンター「JOYFUL HONDA」の黒く大きな建物がそびえ立っています。

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日光街道日光御成道の合流点

この写真は、振り返って撮ったものです。

向かって左手の道が歩いてきた日光街道の旧道で、直線に伸びている方が日光御成道です。つまり、日光街道日光御成道の合流点なわけです。

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合流点の近くに「太子堂」があります。

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源頼朝が奥州征伐の戦勝祈願をした神宮寺

太子堂の斜め向かいに「神宮寺」というお寺があります。

源頼朝が奥州征伐の途中で戦勝祈願をしたとされています。

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眼病にご利益のある螺(たにし)不動

幸手宿の入口となる「倉松川」の「志手橋」を渡ると神明神社があります。

その境内には、「螺(たにし)不動」があります。当時から豊かな田畑が広がっていたことが分かります。

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拝殿前の獅子が手にしているものは、どうやら御神体の螺(たにし)ではないかと思います。

解説板によると、螺不動では、螺の絵馬を奉納して祈願すると眼病にご利益があるそうです。江戸時代には神明神社の前に高札場が置かれていました。

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幸手宿

江戸宿場の面影を残すおしゃれなカフェ

街道沿いにある「上庄(うえしょう)カフェ」は、江戸の宿場の面影を残す国登録有形文化財です。

江戸末期に建築された岸本家住宅主屋(しゅおく)を移築したもので、築180年の重厚な蔵造りの構えでありながら、本格ピザや生パスタの他、手作りケーキが人気のお店です。

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明治の元勲が宿泊した「旅館 あさよろず」

旅館 あさよろず」は文政2年(1819)の創業。

板垣退助伊藤博文等が宿泊した老舗旅館。今も旅館業を営んでいます。最寄りの幸手駅までは徒歩5分です。

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幸手宿はシャッターアートが描かれた商店がいくつもあります。
「永文商店」は全国から集めたこだわりの酒と食材を販売しています。店正面のシャッターアートは見ることができませんが、2階建て側面の波トタンの壁は秀逸です。

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波トタンに描かれた芭蕉奥の細道

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本陣知久家跡

本陣知久家跡は、現在「うなぎ義語屋」です。初代の帯刀は幸手宿の創設に尽力し、代々問屋と名主を兼ねていました。門構玄関付で建坪170坪余だったそうです。

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桜と菜の花で有名な「権現堂堤」

幸手宿の旧街道を離れ、しばらく国道4号線沿いを歩きます。中川に架かる行幸橋(みゆきばし)の手前には、長大な「権現堂堤」が築かれています。

江戸を洪水から守るために寛永18年(1641)に築堤されたものです。毎年4月初めには、桜と菜の花が咲き揃い、他県からも多くの観光客が集まりますが、5月初めのこの時期は、一瞬、森林と見間違えるほどの緑の帯が堤伝いに連なっています。

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4月初めには、1000本のソメイヨシノが1キロにわたって満開を迎えるそうです。(写真は観光協会)

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杉戸宿から幸手宿のアクセスポイント

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日光街道を歩く3-①粕壁宿から杉戸宿

粕壁宿

今日は、粕壁宿からのスタート。ゴールデンウィークの中日、明日から天気は下り坂。夕方には雨模様の予報なので、できるだけピッチは早めにする予定です。

春日部駅のシンボルは「クレヨンしんちゃん

東武野田線東武スカイツリーラインが乗り入れている春日部駅西口に降りてみると、「クレヨンしんちゃん」の物語の舞台だけあって色々な場所でキャラクターが使われています。

駅前のシンボルツリーの芝生にもしんちゃんの顔が。しんちゃんの野原家族の住所もクレヨンの語呂に由来する架空の『春日部市双葉町904』として住民登録されています。 

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粕壁宿の中心は、現在の春日部駅東口方面です。街の案内にも「クレヨンしんちゃん」が一役買っています。 

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粕壁宿の面影を残す建物が並んでいます

 日光街道沿いを歩いていると粕壁宿の面影を残す建物がいくつも目につきます。

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 公園橋(西)の交差点に建つ田村荒物店の土蔵

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 問屋場跡と言われているところです。問屋場とは、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設で、粕壁宿では、継送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていました。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く集まっていました。

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 永島庄兵衛商店は、慶長年間(1596〜1615)創業の米問屋。屋根に鍾馗像がのせられています。現在も営業されています。

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佐渡屋跡の建物です。戦前まで浜島家が穀物商を営んでいた時の明治時代前期築の土蔵(国登録有形文化財)が残されています。 

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春日部の地名の由来はここから

 日光街道新町橋(西)の交差点を右折するのですが、突き当りに見える最勝院に寄りました。

最勝院は日光東照宮に移葬される三代将軍家光の亡骸が仮安置された場所で、「春日部」の地名由来となった春日部重行公の「墳塚」があります。

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 日光街道に戻り、大落古利根川に架かる新町橋から上流を眺めます。

江戸期には、上流に上喜蔵河岸(かみきぞうかし)があったそうです。河川にこれだけ水量があると台風の時期は洪水が心配になりますね。

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小渕一里塚跡

しばらく県道319号線を歩くと、江戸日本橋より9里目となる小渕一里塚跡があります。隣りには天保3年(1832)に建てられた庚申塔があります。

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小渕の一里塚跡の先に追分があり、道標が建てられています。 

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道標には、「左日光道中」と刻まれています。道標に従って、左の道を歩きます。しばらくすると国道4号線に合流します。

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芭蕉句碑がある観音院

国道4号線に合流して間も無く「観音院」が見えてきます。立派な楼門(仁王門)は、市指定有形文化財です。

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 境内には、芭蕉句碑「毛(も)のいへば唇寒し秋の風」があります。芭蕉が当寺に宿泊したとも伝えられています。

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 「北緯36度線地球儀」モニュメント

広い歩道の中央に、春日部市と杉戸市の境界を示す「北緯36度線地球儀」モニュメントが置かれています。

北緯36度は、アリゾナ州にあるグランドキャニオンと同様と書かれていました。

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 堤根(南)歩道橋で国道4号線から旧街道に入ります。しばらく進むと九品寺があります。街道ぞいに道標を兼ねた庚申塔があります。説明板も建てられているのですぐ分かります。「左日光」「右江戸」と刻まれています。天明4年(1784)に堤根の村民42人が建立したものです。

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杉戸宿

銘酒「杉戸宿」の蔵元

 日光街道杉戸宿の面影が漂う建物が見えてきました。

最初に見えてくるのが関口酒造の建物です。創業文政五年(1822)、銘柄はその名も「杉戸宿」の蔵元です。

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格子の玄関がなんとも街道の旅らしい雰囲気を伝えてくれています。 

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 その先に、復元された杉戸宿高札場があります。

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超レトロな銭湯を発見

 道路の向かいに「巴湯」というレトロな銭湯を発見。創業は明治期で、現在の建物は、昭和初期なのだそうです。「お湯は100%井戸水、燃料は100%木材」がキャッチフレーズです。この辺りは、東武動物公園駅から徒歩10分の距離です。

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 本陣跡地前と言う交差点の門に「明治天皇御小休所趾」があります。

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杉戸宿の面影を残す建物

 渡辺金物店の建物です。平成に入って店は閉じていますが、代々受け継がれてきたたたずまいを感じます。

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 角穀屋跡です。米穀店だったそうで、商家と蔵が残っています。

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 渡辺勘左エ門邸です。豪壮な家屋と蔵を残しています。質屋業を営み、多数の小作人を抱えていたそうです。

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 粕壁宿から杉戸宿までのアクセスポイント

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