日光街道を歩く1-② 千住宿から草加宿
千住宿
千住大橋の青物問屋「やっちゃ場」
千住大橋を渡り、国道4号線から旧街道の千住仲町商店街に入っていきます。
この辺りはかつて「やっちゃ場」と言われていた場所で、青物問屋が軒を連ねていました。ここにも芭蕉の句碑「鮎の子のしら魚送る別哉」が建てられています。
かつての青物問屋の蔵を資料館にしている「千住宿歴史プチテラス」。
当時のやっちゃ場の様子を伝える貴重な写真や資料が置かれていて、無料で見学することができます。
道標がありました。「旧日光道中」「是より西へ大師道」と刻まれています。
戊辰戦争戦死者の供養塔がある不動院
商店街から路地に入ったところに「不動院」があります。
ここには戊辰戦争の戦死者や飯盛女の供養塔が建てられています。
境内に入り向かって右側に、大きな供養塔があります。
供養塔の正面には「南無阿弥陀仏」横には「藝州」と刻まれています。
この供養塔は、千住口から戊辰戦争に従軍した藝州藩(広島藩)の軍夫、従事者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものと解説板に記されています。供養塔の台座には氏名も刻まれていました。
徳川家の御殿だった「赤門寺」
不動院の近くには三宮神山大鷲院勝専寺があります。
通称「赤門寺」と親しまれています。江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠、家光、家綱らが使用していました。
賑やかな千住の宿場町通り
しばらく歩くと 商店街を分ける交差点があります。
右手には北千住駅の大きな駅ビルが見えます。ここから商店街は賑やかな「宿場町通り」に変わります。
千住高札場の跡は、千住本町公園として活用されています。
横山家は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家です。
戸口は、一段下げて造るのが特徴です。それは、お客様をお迎えする心がけの現れとされています。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは紙漉問屋を営んでいました。
慶応4年(1868)5月の上野戦争で敗退する兵士が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根などがあり歴史を感じることができます。
安養院の仲良し地蔵尊とかんかん地蔵尊
荒川の手前に安養院があります。境内には「仲良し地蔵尊」と「かんかん地蔵尊」があります。中央の二体が仲良し地蔵尊です。左の地蔵尊は1664年(寛文4年)に、右の地蔵尊は1670年に建立されています。白っぽい地蔵尊が、小石で叩くと願いが叶うという「かんかん地蔵尊」です。
荒川放水路(大正13年に開削された人口河川)に架かる千住新橋から東方向を撮りました。
旧道の途中に「石不動尊」があります。
堂内に耳の病に霊験あらたかな石造耳不動尊像が安置されています。堂前には「子育八彦尊道是より二丁行」とあります。
将軍家御成通松並木跡
梅島駅を越え、島根の交差点の先に「将軍家御成橋 御成通松並木跡」の標柱があります。その先にある「国土安穏寺」までの御成道となっていました。
増田橋の交差点に道標があります。「増田橋跡 北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれています。
小塚原刑場の刑死者の菩提寺「法華寺」
竹の塚を越えた場所に法華寺があります。小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていました。境内には無縁塔があります。
東京都と埼玉県の境となる毛長川を渡ります。谷塚駅の近くに「冨士浅間神社」があります。瀬崎村の総鎮守です。
火あぶり地蔵尊
その先の交差点に「火あぶり地蔵尊」があります。奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主に暇を願い出るものの許されません。そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり、家に帰れると思い込み放火してしまい、「火あぶりの刑」となってしまいます。村人が憐れみ供養のために地蔵を祀りました。
草加宿
今様草加宿
旧道との追分の場所に「今様草加宿」の大きな標柱があります。ここで左に折れます。
草加宿でのお泊りに最適な「旅館埼玉屋」さん。
その先に草加市役所があります。
市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋の跡。その入口の角に地蔵尊があります。
草加せんべいで有名な草加宿
1日目のゴール「草加駅」に到着。お土産に「いけだ屋」の草加せんべいを買いました。駅前には、高層のマルイとイトーヨーカドーがあります。駅前周辺の開発が進んでいて賑さを感じました。・・・予想通り、一日中花粉症で悩まされました。