日光街道を歩く5-②小山宿から新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿

小山宿 

小山といえば、徳川家康関ヶ原の戦いを決断した「小山評定」のイメージが強いのですが、幕末、戊辰戦争で凄まじい戦場となった場所でもあるのです。

戊辰戦争「小山の戦い」の舞台とは

慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡されます。

その頃、幕府歩兵奉行の大鳥圭介駿河台の自邸を離れ、墨田区太平の「報恩寺」に入っていました。

江戸開城に納得せず、徹底抗戦を志す土方歳三新撰組、伝習隊、桑名藩士らとともに、大鳥圭介は総督として日光を目指し、行動を起こしたのです。その先には、会津がありました。

集まった総勢2千数百人を3隊に編成します。先鋒は、会津藩士の秋月登之助を隊長に、土方歳三を参謀とした伝習隊第一・桑名藩士・新撰組で構成、中軍は、大鳥圭介を隊長に伝習隊第二が中心、後軍は、幕臣の米田桂次郎を隊長に歩兵第二連隊が中心となり別ルートで宇都宮、日光を目指したのです。

写真は、駅前上町の歩道橋から見た日光街道です。前方は宇都宮方面。

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 日光街道沿いには、「思季彩館」という観光交流センターがあります。残念ながら月曜休館でした。旧八百忠という商家と石蔵を利用した建物です。

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 旧幕陸軍の勝利に終わった「第一次小山戦争」

当時すでに宇都宮城は、新政府軍の管轄下に置かれており、新政府軍の軍監 香川敬三は旧幕陸軍を攻撃するため、宇都宮城から小山方面に進軍を命じます。

一方、旧幕陸軍の3隊と別ルートで出立していた旧幕府草風隊(西洋式調練をマスターした旧幕臣子弟200人)は、急ピッチで北上していました。

そして、4月16日正午頃、両軍の戦闘が開始されました。新政府軍は主に笠間藩兵で、武器は銃ではなく手槍だったため、最新兵器を持つ旧幕府草風隊に圧倒され、多くの死者を出すことに。勝利した旧幕府草風隊は栃木方面に進んでいます。

光照寺」の墓所には戊辰戦争で戦死した新政府軍笠間藩士の墓があります。

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旧幕陸軍の猛攻「第二次小山戦争」

4月17日、大鳥圭介が率いる旧幕陸軍中・後軍は小山を目指していました。前日に大敗を期した新政府軍は、彦根藩などの援軍を伴い先手を打って兵を宿場の各所に配備し、遊撃態勢をとります。

戦闘は、午前10時に開始。一時、新政府軍の銃攻撃に押されたものの、旧幕陸軍は応援態勢を継続したため、次第に新政府軍は前後を包囲される形となり、わずか1名を除き、隊長以下総員が戦死したと伝えられています。第二次小山戦争は午後2時に終結

日光街道の近くにある「常光寺」には戊辰戦争「小山の戦い」で被弾した痕跡を残す青銅阿弥陀如来像が所蔵されています。 

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旧幕陸軍の連勝「第三次小山戦争」

激戦を終え、旧幕陸軍は村民が炊き出した赤飯で戦勝を祝い、大鳥圭介は酒肴を振る舞いました。祝い酒で酩酊する兵士も少なくなく、新政府軍の逆襲を恐れた大鳥圭介は小山に布陣することなく、午後5時に出立することに。

その直後に、新政府軍が再度小山に襲撃をかけてきたのです。前日敗退した笠間藩兵と祖式金八郎の一隊でした。戦闘は、双方が銃で応戦する銃撃戦となり、銃撃戦で攻勢に立った旧幕陸軍は勢力を分散させ、新政府軍を追討し、戦闘は短時間で終結しています。二日間にわたる小山戦争は旧幕陸軍の勝利で終わっています。

日光街道に参道が面している「興法寺」は、嘉祥2年(849)創建の古刹で、元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。小山戦争では、ここも戦場となりました。

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 山門の先には見事な庭園と本堂があります。

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 境内にある「地蔵尊」には、戊辰戦争「小山の戦い」の被弾痕があります。

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地蔵尊の左側面のちょうど腰の部分に被弾して痕が見えます。

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 新田宿 

小山宿を後にしばらく歩き、羽川小学校を越えた所に、四脚門の本陣門を残した「青木本陣跡」があります。

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 日光街道の沿道に「吉田神社跡碑」があります。その路地に入った先に「羽川薬師堂」があります。

薬師堂には、「薬師瑠璃光如来像」が安置されています。境内の履屋には文政13年(1830)建立の十九夜塔と、安政4年(1857)建立の雨引観音が安置されています。

十九夜塔は、旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された塔のことです。月待行事とは、特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。十九夜講のほとんどは女人講、念仏講で、子安講といい、安産を祈願することもあるそうです。

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 小金井宿

小金井宿に入りました。JR東北本線小金井駅の近くに「小金井の一里塚」があります。日光街道をこれまで歩いた中で唯一両塚を残している貴重な史跡です。国の指定史跡となっています。

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 往時のままなので、日光街道の道幅を知る上でも重要な一里塚ですね。

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 真言宗の古刹「慈眼寺」です。

建久7年(1196)、新田一族の祈願寺として創建された寺院です。当時、境内には、御成御殿(御座所)が設置され日光社参りに将軍はここで昼食を摂っていました。

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大越本陣跡の前には、幕末に建てられた店蔵がいくつか並んでいます。いずれも安全対策上だと思いますが、ネットが設置されていました。

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 日光街道は、途中で国道4号線から分かれ笹原旧道に入ります。風景から往時の面影が感じられます。写真は、本陣大越家の蔵です。

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 栃木に入ってから麦畑をよく見るようになりました。もうすぐ収穫の時期なのだそうですが、栃木県の麦の生産量は全国で4番目で、二条大麦は全国で1位なのです。

その理由は、関東ローム層を黒ボク土が覆い、水はけもよく、また麦は成育中に根を深く張ることができることや、収穫期の6月は梅雨にかかり、本来、麦の収穫に雨は大敵なのですが、比較的県内では長雨が続かないという環境があっているのですね。

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 再び国道4号線に戻ります。しばらく歩き、国道352号線の交差点にかかる前に、青いトタン屋根に覆われた石仏石塔群が見えてきます。

宝永7年(1710)と享保3年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享4年(1747)建立の十九夜塔が旧道側を向いて祀られています。

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石橋宿

 石橋宿に入りました。日光街道に面して鳥居があります。参道脇には、弘化4年(1847)建立の二十三夜塔などがあります。

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 馬頭観音が祀られています。

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 雀宮宿

宇都宮市に入るなり、餃子の街らしい工場を発見。工場でも小売されていました。f:id:mondo7:20180522224846j:plain

 雀宮駅に到着。駅の外観が新しくオシャレな感じです。本日の歩き旅はここまでです。今回は、朝9時から夕方5時半まで歩きました。距離にして33キロ。お疲れ様でした。

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