戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く①

白河小峰城戊辰戦争

今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。

ちなみに会津では、明治維新150年とは決して言いません。戊辰150年なのです。

今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎街道をゆく33「白河・会津のみち」を歩いてみました。最初に訪れた白河は、江戸日本橋から奥州街道を歩いて27番目の宿場です。

白河の中心は、小峰城(白河城)跡です。古くから奥州の関(入口)として要衝の地とされてきました。慶応4年(1868)閏4月20日、この地で100日間にわたり激戦「白河城(口)の戦い」が起きました。

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 白河市が戊辰150年を記念に制作した映像です。ご覧ください。


戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー【本編】

白河小峰城の激戦

特に鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた会津は、新政府軍(薩長土肥)の報復の対象とされ、東北諸藩に会津藩追討令が出されます。しかし、仙台藩をはじめ新政府軍に抗う東北諸藩は同盟を結び、結束して行動します。

戊辰戦争の2年前(慶応2年)、それまで白河藩主だった阿部氏が隣の棚倉藩に転封され、白河城は藩主なしのまま、二本松藩の預かりという形で戊辰を迎えます。

会津藩は、宇都宮方面に侵攻している新政府軍が奥州の要衝の地である白河に至るまでに白河城を奪取する計画をたてます。すると、守備を固めていた二本松藩ら東北諸藩は無抵抗で撤退します。実は、事前に会津藩と東北諸藩が密約が交わしていたのです。

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白河城を巡る緒戦では、新政府軍に対して優位に立っていた会津藩でしたが、陣容の立て直しを図った新政府軍は、最新鋭の銃火器に物を言わせ、攻防戦を繰り広げます。

仙台藩や棚倉藩、二本松藩の援軍を加えたものの、会津を中心とする同盟軍は劣勢にまわり、落城します。同盟軍の死者は700余命にのぼりました。

この戦いにより、白河城内の建物の多くは焼失してしまいました。

平成3年、小峰城の三重櫓は木造で忠実に復元され、現在では、往時を偲ぶことができます。

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700余名が亡くなった「白河口の戦い」のなかでも激戦地の「稲荷山」は砲撃、銃撃戦が激しく、多くの弾丸が周辺の杉林に撃ち込めれました。これらの杉を三重櫓の復元のために伐採、製材したところ、戦闘時の弾丸が数多く発見されました。この弾丸の跡は1階の通し柱と床板に見ることができます。

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戊辰の役古戦場(「白河口の戦い」)

次に訪れた場所は、最も激戦地となった稲荷山の麓です。慶応4年(1868)5月1日、一日で会津藩仙台藩など奥羽越列藩同盟の諸藩700余命が戦死したとされています。一方、新政府軍の死者は10名でした。

のぼり旗には「白河戊辰戦争 甦る仁のこころ」と記されています。

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戦死墓

この碑は、会津藩戦死者を弔うため、戊辰戦争後まもなく地元の人びとが建立したものです。

白河藩は藩主がいなかったため、戊辰戦争には参戦せずに済んだものの、戦場となりました。白河の庶民は、戦争の時は息をひそめて済むのを待ち、戦闘が終わると、そのつど両軍の戦死者を埋葬してきました。以後、ほとんど無縁仏になった戦死者の墓を150年間守ってきたのです。

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田邊軍次君之墓

戦死墓碑の隣に「田邊軍次君之墓」があります。ここにも戊辰戦争の悲話が遺されていました。

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長州大垣藩戦死六名墓(松並地区)

道を挟んで、向かいに新政府軍の長州藩士3名、大垣藩士3名の墓があります。

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会津西街道「大内宿」を歩く

白河を後に、会津若松に向かいます。司馬遼太郎の「街道をゆく〜白河・会津のみち」と同様、大内宿を経由します。那須岳や旭岳が連なる奥羽山脈を抜ける国道289号線(甲子道路)の途中には長いトンネルがあります。その長いトンネルを抜け、下り切ると会津西街道(国道121号線)にぶつかります。土方歳三も宇都宮の闘いで足を負傷したあと、この会津西街道を通って会津鶴ヶ城に入りました。

このみちは会津と日光をつなぐ街道でもあることから、会津の人は「日光街道」とも呼んでいます。また、国道121号線は、会津鉄道線と並行していて、途中には「塔のへつり」や「芦ノ牧温泉」などの有名な観光地が集積しています。

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宿場の女将さんが、乾ききった土の路面に長い柄杓で打ち水をしてくれています。大内宿は、江戸時代の宿場がそのまま残されていて、まるでタイムスリップしたような気分に浸ることができます。

江戸時代、この街道は、会津から越後や関東に出るための裏街道としてつかわれてきた。主として、この裏街道は会津藩の廻米(かいまい)を江戸に送るための道で、宿場はその荷役をつとめる問屋の働きをつとめていた。(「街道をゆく」)

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 江戸時代のこの宿場の暮らしは、半宿半農だったことが、明治後に幸いした。一戸あたり平均二反歩ほどの水田と、全体で七十町歩もある畑が、人びとの暮らしを支えた。明治後、宿場は廃れた。特に明治のある時期に他に道路ができたため、大内宿は孤立してしまった。それでもなお村の旧観が残っているのは、奇蹟に近い。(「街道をゆく」)

浅沼食堂の「冷やし宿場そば」

宿場の端から端まで歩き、突き当たりにある立派な棟の「浅沼食堂」で昼食をとります。

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浅沼食堂さんの店内です。冷房はありませんが、縁側から吹き込む風がとても気持ち良いのです。

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ヤマメ料理もあるので、夏でも囲炉裏が焚かれています。

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大内宿というと、箸の代わりにネギを使った「ネギ蕎麦」が有名なのですが、今回は、浅沼食道で一番人気の「冷やし宿場そば」を頂きました。なめこ大根おろし・山菜・かつお節が入っていてとても美味しいですよ。900円です。

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大内宿で最も高台にある浅沼食堂の縁側から撮った一枚です。

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食後、浅沼食堂の裏手にある石段を上がり社にお参りします。

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 大内宿見晴台

社の並びに大内宿全体が一望できる大内宿見晴台があります。大内宿にお越しの際にはオススメのビューポイントですよ。このあと、一路「会津鶴ヶ城」を目指します。

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 「白河・会津のみち」旅のポイント

boshin150.hateblo.jp

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