戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く②

会津に入る

大内宿を後に、国道118号線で会津に入ります。国道と並行して「会津鉄道線」が敷かれています。途中、風情が残る芦ノ牧温泉を越え、国道は一気に下ります。市内に入り、しばらくすると会津鶴ヶ城が左手に見えてきます。

会津藩は、幕末に入り、数奇な運命を辿っていきました。

会津中将松平容保が、藩兵を率いて京に入ったのは、戊辰(明治維新)から6年前の文久2年(1862)12月24日。そして、新選組が、京都守護職としての容保の差配に入ったのは、容保が上洛して10ヶ月後のことだった。それも容保の側から進んでそうしたのではなく、幕府が、付属させたのである。 

ただ、新選組の苛烈な白刃によって、都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。恨みは、会津藩に向けられ、やがて会津攻めになって晴らされる。(「街道をゆく」)

戊辰150周年を迎え、至る所で戊辰ののぼり旗を目にします。鶴ヶ城天守閣では幕末特集が行われています。

f:id:mondo7:20180724231042j:plain

会津藩の歴史に触れる

ここで、少し会津藩史に触れてみます。 

(会津藩史 その1)

元々、「黒川」という地名を「会津若松」という地名に変えた人物は蒲生氏郷(1556-95)です。蒲生氏は近江の名族でした。信長の三女冬姫の婿になった蒲生氏は秀吉からも優遇され、伊勢松坂12万石に封じ、商業都市へと発展させます。後に、秀吉は、蒲生氏を奥州会津、当時の黒川に転封させます。

奥州五十余郡の武の地で、よほどの器量の者を会津にすわらせてその鎮めにせねばならないということだったのだろう。

町割もし、商工業の基礎もつくった。かつて氏郷とともに伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人たちが、今度は会津までやってきて、城下に日野町(後に甲賀町)という商工業の町を形成した。氏郷は、城下の名も変えた。「若松」とした。(「街道をゆく」)

会津鶴ヶ城天守閣で行われていた全館幕末特集を見学させていただきました。

会津鶴ヶ城全館幕末特集のご案内

f:id:mondo7:20180723154048j:plain

 

(会津藩史 その2)

藩祖は、保科正之(1611-72)である。この人の思想と人柄が、後々まで会津藩を性格づけた。

ともかくも会津藩は85%の中間層のおかげで密度高い藩風が確立したのである。さらには、教育水準を高めることにも役立ち、もう一つは結束力もつよくなった。

藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。

会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩松平容保(1835-93)を起用して"京都守護職"にしたことである。(「街道をゆく」)

写真は、天守閣の最上階(5階)にある展望台から眺めた景色です。

中央手前に見えるこんもりとした山が、白虎隊が自決を遂げた「飯盛山」です。目印は、「白くて細い柱(避雷針?)」です。そして、左奥にそびえているのが会津磐梯山

f:id:mondo7:20180723154300j:plain

 

右に目線を移します。中央手前に見えるこんもりとした山が「小田山」です。戦いの終盤、「小田山」を占領し、台場を築き、アームストロング砲や4ポンド山砲など20数門を据え、眼下の鶴ヶ城に向けて砲撃を開始した場所です。 

手前の瓦に注目していただきますと、以前は、鶴ヶ城の屋根瓦は「黒瓦」だったのですが、7年ほど前に幕末当時の「赤瓦」に葺き替えられています。

f:id:mondo7:20180723154548j:plain

桜「はるか」も成長してます

平成25年に女優の綾瀬はるか新島八重役で主演を務めたNHK大河ドラマ「八重の桜」が放送されました。ご覧になった方も多かったのでは。 そのご縁で、綾瀬はるかさんが、鶴ヶ城公園の一角に桜の植樹をしています。その桜の名はズバリ「はるか」です。今ではこんなに成長しています。

f:id:mondo7:20180723154656j:plain

 

綾瀬はるかさんが植樹祭の際にメッセージを送られていますが、そのメッセージが桜「はるか」の前に建てられています。

f:id:mondo7:20180723154734j:plain

新撰組副長「土方歳三」が療養した東山温泉

新撰組副長「土方歳三」は、幕末の新政府軍と戦いながら北上します。 宇都宮城の戦いで足を負傷した土方歳三は、傷に良く効くとされる東山温泉で療養したと伝えられています。

東山温泉と土方歳三 

f:id:mondo7:20180723154840j:plain

土方歳三が天寧寺に建立した「近藤勇の墓」

 土方歳三は、会津療養の間に、天寧寺近藤勇の墓」を建立します。 「近藤勇の墓」には伝説があり、京都にさらし首になっていた近藤の首を、土方が齋藤一に取りに行かせ、 その首を、会津の地に葬ったとも、遺髪のみを埋葬したとも言われています。 「近藤勇の墓」を建立する際、土方をはじめ、齋藤一などのメンバーも天寧寺に滞在した記録が残っています。

天寧寺と近藤勇

f:id:mondo7:20180723154939j:plain

 

細い山間の道ですが、天寧寺本堂まで車で入ることができます。しかし、本堂から近藤勇の墓石までの間は、お墓のあぜ道を歩くしかありません。案内看板を頼りに歩きます。夕暮れになると少し怖いかもしれません。近藤勇の他にも、会津戦争の責任者であった萱野権兵衛、そしてその次男郡長正のお墓があります。

f:id:mondo7:20180723155018j:plain

 

左が近藤勇のお墓です。右は土方歳三の慰霊碑です。

f:id:mondo7:20180723155109j:plain

 

天寧寺には、「会津士魂」の碑が作家早乙女貢の墓碑と並んで建てられています。

f:id:mondo7:20180723155209j:plain

 七日町通りに残る幕末の史跡

会津城下の七日町通りを歩きます。七日町通りは会津五街道のうち米沢、越後、下野(途中桂林寺通りを経由)の主要な街道となる城下町の通りで、江戸時代から昭和にかけて会津一の繁華街として賑わいを見せていました。その名残りは古い蔵や洋館、木造町家の建物に見ることができます。

f:id:mondo7:20180728154159j:plain

幕末の志士が投宿した清水屋旅館跡

土方歳三は、宇都宮城攻防戦で足を負傷したあと、会津へ向かい清水屋旅館に投宿しました。土方はこの旅館で各地を転戦していた多くの新選組のメンバーと再会しています。また、長州の吉田松陰もその若き日に東北旅行に出かけ、途中、会津のこの旅館に立ち寄っています。当時は三階建ての格式の高い旅館で、多くの名士たちが投宿しましたが、昭和初期に取り壊され、現在は大東銀行会津若松支店となっています。

f:id:mondo7:20180723160151j:plain

 会津東軍墓地のある阿弥陀寺

七日町駅の近くにある「阿弥陀寺」の境内に「会津東軍墓地」があります。

阿弥陀寺会津戦争の東軍戦死者1281体が埋葬されています。阿弥陀寺の他に長命寺に145体が葬られています。この二つの寺以外には埋葬が許されませんでした。
9月22日の戊辰戦争集結後、西軍の命で放置され、触ることも許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのが明治2年2月のことです。
しかし、あくまでも賊軍としての埋葬で「戦死墓」の文字以外は許されませんでした。

阿弥陀寺と戊辰戦争

f:id:mondo7:20180723165817j:plain

 

右方の碑は「戦死墓」とありこの墳墓の表石です。左方の碑が「報国尽忠碑」で明冶十年の西南戦争で薩摩軍と戦って戦死した旧会津藩士の碑で、佐川官兵衛他71名の旧会津藩士の名が刻んであります。そして、後方の碑は、戦争の全責任を一身に受けて切腹した「会津藩萱野権兵衛長修遥拝碑」です。

f:id:mondo7:20180723165915j:plain

新選組三番隊組長「斎藤一」の墓

阿弥陀寺には新選組三番隊組長の斎藤一のお墓があります。斎藤一は、戊辰戦争で新政府軍が会津に攻めてきた折、負傷していた副長の土方に代わって指揮をとりました。

その後、斎藤一は「会津を見捨てることはできない」と、北へ向かった土方歳三と別れて会津に留まります。戦争終結後は藤田五郎と名を変えて、警視庁に勤務し、西南戦争で活躍します。大正4(1915)年に72歳で往生を遂げた斎藤は、後半生を会津人として生きた彼の希望により、ここ阿弥陀寺に葬られています。

f:id:mondo7:20180723170121j:plain

鶴ヶ城唯一現存する遺構「御三階」

 斉藤一の墓の向かいに鶴ヶ城唯一の遺構「御三階」があります。

明治3(1870)年、新政府軍に解体された鶴ヶ城の小天守にあたる御三階は阿弥陀寺に移築されました。外見は三階建てですが、内部は四階建てになっています。最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、かつて鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使われていたと言われています。当時の鶴ヶ城の遺構として、現存する唯一の建物です。

f:id:mondo7:20180723170304j:plain

白木屋漆器

約300年前に創業された老舗漆器店。店内には食器からアクセサリーまで1000種類以上の会津漆器が揃っています。七日町通りに面した建物は大正3年に竣工した土蔵造り。

白木屋漆器店

f:id:mondo7:20180723173403j:plain

 

2階に上がると、超豪華な漆器美術品が展示されています。

f:id:mondo7:20180723160421j:plain

戊辰戦争の刀痕が残る鈴木屋利兵衛

黒い土蔵造りの鈴木屋利兵衛は、安永年間の創業で、伝統工芸品会津絵やオリジナルの漆絵、民芸品を取り扱っている老舗商店。鈴木屋利兵衛は、一時、新政府軍の軍事基地として占拠使用されていたことから、焼失を免れています。店内にある柱には今も刀痕が残されています。

鈴木屋利兵衛

f:id:mondo7:20180723173506j:plain

会津藩松平容保の書がある「末廣酒造」

会津の地酒で有名な末廣酒造です。嘉永3年(1850)創業の酒蔵。魅力は、酒蔵を解説付きで見学できることです。もちろん、試飲もできますよ。

末廣酒造

f:id:mondo7:20180723173601j:plain

 

2階には、酒蔵を改造したコンサートホールまであります。今年の5月にはジャズ界のレジェンド渡辺貞夫さんの演奏があったそうです。また、大広間は当時のまま保存されています。奥座敷には藩主松平容保の書が掲げられています。

f:id:mondo7:20180723174114j:plain

夕食は、会津一の海産物問屋 「渋川問屋」

阿弥陀寺の近くに、明治時代、会津一の海産物問屋だった「渋川問屋」があります。渋川問屋には、明治時代に建築された蔵や大正時代の木造家屋などが当時のままに残されていて、会津商家の面影をとどめています。

渋川問屋と郷土料理

f:id:mondo7:20180723155326j:plain

 

渋川問屋は、もともと郷土料理の材料を扱う海産物問屋だったので、本格的な町方料理をコースで楽しめる会津の老舗料理屋として今に引き継がれています。

f:id:mondo7:20180723155416j:plain

 

渋川問屋の藍染の暖簾を潜ると、明治時代のままの設えが広がっていて、郷土料理にも期待が膨らみます。

f:id:mondo7:20180723155602j:plain

 

予約をして来られる方がほとんどのようです。座敷も当時のままで、中央には囲炉裏端があります。

f:id:mondo7:20180723155753j:plain

 

 会津郷土料理は全てコースとなっています。今回は「祭り御膳 亀コース」をお願いしました。着座すると、すぐに「食前酒」と「先付け」、「ニシンの山椒漬け」、「ニシンの昆布巻き」が配膳されました。この後、「紅鮭寿司」や会津の冠婚葬祭時に出される「こづゆ」、極上の献上牛とされる会津塩川牛ステーキ等々をいただきました。

f:id:mondo7:20180723155646j:plain

会津に残る幕末の史跡 

boshin150.hateblo.jp