日光街道を歩く6 雀宮宿から宇都宮宿
雀宮宿
約5ヶ月ぶりに日光街道ウォークを再開しました。季節も春から秋に。今回は、日光の手前の大沢宿で一泊してゴールを目指します。
偶然ですが、150年前の今日(2018年10月23日)は、明治時代が始まった日なんです。さて、どんな旅になるのか楽しみ!
前回の終着地点「JR雀宮駅」のホームに降り立つと、駅のシンボル「雀」のブロンズ像が目に入ります。
"雀宮" 何とも可愛らしい地(駅)名ですね。その由来を調べてみると、
「百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫の元に向かいましたが、この地で病死してしまいます。夫も任地で死亡しましたが、霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで息絶えてしまいます。里人が憐れみ塚上に綾女神社を祀り供養したとされています。
平成23年に改築された駅舎には、地元の「大谷石」がふんだんに使われています。
「雀宮宿」は、日光道中の整備に伴い天保14年(1843)に開かれました。宿内家数は72軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠38軒で人口は268人。
今回の旅の目的の一つに「日光街道界隈に残る戊辰戦争の足跡を訪ねる」があります。そこで、雀宮駅にあるレンタサイクルを利用して周辺を巡ることに。
宇都宮市は、雀宮駅と宇都宮駅に放置自転車を活用して一日100円でレンタサイクル(ママチャリ)を行なっているんです。素晴らしい!
戊辰戦争の史跡が残る場所は、雀宮駅から約5km離れた「安塚」です。宇都宮市のレンタサイクルのホームページはこちら。
安塚の戦い
ここで、安塚の戦いに至る幕府軍と新政府軍の激戦の経過を辿ります。
大鳥圭介ら旧幕府軍と新政府軍が小山で対峙する中、土方歳三ら千余名は慶応4年4月19日早朝、蓼沼村を後にして、南東の方角から宇都宮城を攻撃します。
すでに、東北の入口となる宇都宮城には新政府軍が入り、防備を固めていましたが、宇都宮城の南東部は田川が流れているだけで土塁も低く、防備が薄かったため、土方歳三ら旧幕府軍に撃ち破られます。その後、大鳥圭介らも20日に宇都宮城に入ります。
小山の戦いでの敗報を受けた新政府軍の東山道総督府は3次にわたり救援軍を派兵します。宇都宮城の陥落を知った救援軍は一旦、壬生城へ入ります。
新政府軍の北上の報を受けた旧幕府軍の大鳥圭介らは、壬生城に向けて軍を派遣します。
一方、新政府軍も壬生城から宇都宮城の奪還に向け出陣します。そして4月22日未明、両軍は安塚で激突ということになったわけです。
下の写真は安塚にある「戊辰戦役の墓」です。
激しい風雨の中、姿川を挟んで壮絶な銃撃戦が展開されます。
一進一退を繰り返しますが、大鳥圭介ら旧幕府軍は追い詰められ、宇都宮へと撤退します。この戦いで旧幕府軍で元新撰組の永倉新八が腕を負傷しています。
結局、安塚の戦いは、新政府軍の勝利に終わりました。この地には幕府軍34名の戦死者の鎮魂碑が地元住民によって建てられています。
この先に攻防戦が繰り広げられた姿川があります。姿川をひと目見て、再び雀宮駅までママチャリで戻ることにしました。
想像していた以上にアップダウンがあり、ママチャリではなく電動自転車を借りとけばと後悔しながら、重いペダルを踏んでいました。
大谷石造りの長屋門
安塚駅近くで見かけた大谷石の立派な長屋門。思わずシャッターをきりました。
雀宮神社
雀宮駅でレンタサイクルのママチャリを返却し、日光街道を宇都宮宿に向けて歩き始めます。
雀宮駅から5分ほど歩いたところに「雀宮神社」があります。
長徳3年(997)八幡太郎義家の創建、雀宮村の鎮守。正徳3年(1713)東山天皇より金文字で「雀宮」と書かれた「勅額」が下賜されたため、日光社参の将軍や諸大名は参詣を常とした、と言われています。
新町のケヤキ
西原の追分で国道4号線から国道119号線に進みます。
途中、JR日光線、東武宇都宮線のガードをくぐり、不動前通りをしばらく進んだところに「新町のケヤキ」があります。
樹齢800年で樹高43m、目通し周囲7.9mあり、江戸から宇都宮城下への入口に当たるため人々の目印とされてきましたが、平成25年の台風18号で半倒壊し、その後伐採されてしまいました。
戊辰戦争の激戦地 宇都宮宿
宇都宮宿は、二荒山神社の門前町として栄え、地名は、下野国「一の宮」や、奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来としているなど諸説あります。
その後、宇都宮藩は城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運で江戸と結ばれ、日光街道一の賑わいある宿場となったようです。
宇都宮宿では、特に戊辰戦争「宇都宮城の戦い」の足跡を散策しながら北上を目指します。
宇都宮藩士が眠る西原山台陽寺
新町のケヤキのそばに「西原山台陽寺」があります。慶長10年(1605)の創建。墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓があります。
新政府軍の墓碑がある松嶺山報恩寺
茅葺きの山門は寛永16年(1639)創建時のもの。境内には戊辰戦役で戦死した薩摩、長州、大垣藩士の「戦死烈士之墓」があります。
山門をくぐると右側に「戊辰 薩藩戦死者墓」があります。
墓台には3つのプレートが埋め込まれています。プレートには、戦死者の部隊名、氏名、年齢が書かれていて、中央のプレートには18歳という若さで戦死した方のお名前も。
安塚の戦いで勝利した新政府軍は、宇都宮城奪還に向け、城下南西の六道の辻から宇都宮城に攻め込んで行きました。
六道の辻の戊辰役戦死墓
各方面からの旧街道が交差する六道の辻一帯は、宇都宮城を奪還しようとした新政府軍と、迎へ撃つ旧幕府軍が激戦を繰り広げた場所です。
旧幕府軍関係者の遺体は、付近の住民らによって六道辻付近に合葬されました。
その後、明治7年6月に、旧宇都宮藩士の戸田三男、前橋徳蔵ら14名によって「戊辰役戦死墓」と刻んだ墓碑がこの六道交差点脇に建立されました。
新政府軍に抵抗して散った人々は当初埋葬すら許されず、許された後もその墓石に名を刻むことは禁じられ、僅かに許されたのは「戦死墓」の三文字だけでした。
六道交差点に残るこの墓碑を、地元の人々は「賊神さま」と呼んでいたと言われています。
旧幕府軍桑名藩士の墓がある光琳寺
光琳寺本堂で六道付近で採れたという美味しい柿をご馳走になりました。光琳寺さんは、まちのプラットホームを目指してユニークな活動をされています。ホームページをご覧ください。光琳寺ホームページ
宇都宮城の戦いで戦死した旧幕府軍の墓が六道の辻にある「戊辰役戦死墓」以外にあるとは思っていなかったので驚きました。
同じく、光琳寺の境内に官軍(新政府軍)の因幡藩士、山口藩士の墓碑があります。
宇都宮城の攻防戦
光琳寺を後に、もみじ通りを東に進みます。日光街道を抜け、宇都宮市役所を越えたところに宇都宮城址があります。
ここで、改めて宇都宮城での激戦の経過を辿ります。
すでに新政府軍により守りが固められていた宇都宮城でしたが、旧幕府軍先鋒隊の秋月登之助や土方歳三らによって、攻め込まれ、宇都宮城は落城してしまいます。この時、敗走する宇都宮藩士によって城主居城である二の丸に火が放たれ、宇都宮城は焼け落ちてしまいます。
旧幕府軍先鋒隊を指揮していた土方歳三の士気は凄まじく、戦場から逃走しようとした自軍の従兵をその場で斬っています。きっと士気をあげる為でしょう。この戦いで土方歳三は脚を負傷してしまいます。薩摩藩狙撃兵の銃弾によるものとみられています。
一旦、壬生城に敗走した新政府軍でしたが、東山道総督府からの救援軍の派遣で勢いを付け、安塚の戦いで大鳥圭介ら旧幕府軍を破り、さらに六道の辻で激戦を繰り返した新政府軍は、再び、宇都宮城を奪還するのです。
宇都宮を脱した大鳥圭介、土方歳三ら旧幕府軍は、日光街道を北上し、徳次郎村を経て、例幣使街道を通り、大沢に抜け、今市宿の本陣に入ります。
その後、大鳥圭介らは日光に進み、負傷している土方歳三らは会津を向け出立していきます。(土方歳三の会津での東山温泉療養の様子は、「会津戦争」で紹介しています)
復元された宇都宮城
慶応4年4月の戊辰戦争で城内の建築物は焼失してしまいましたが、平成19年3月に宇都宮城本丸の一部が外観復元されています。
復元された本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓は内部が公開されています。
10メートルに及ぶ土塁内部は鉄筋コンクリート造りになっていて、宇都宮城に関する資料の展示の他、驚いたことに災害用備蓄倉庫としても役立てられています。
土塁に囲まれたこの広大な芝生は、当時の本丸で、将軍が日光社参の際に使用された宿泊施設となっていたところです。
この写真は、土塁上に建つ清明台櫓から撮ったものです。この辺りが二の丸に当たるところで、城主の居館があったようです。
先日、「ブラタモリ・宇都宮編」でも紹介されていたのでご覧になった方も多いかと。
本丸御殿が置かれた場所には清明館という建物があり、歴史展示室や休憩室などが入っています。
大谷石造りの松が峰教会
宇都宮名物の大谷石は、昔から蔵や家屋、教会に至るまで、地元の人に広く使われています。年月を経るごとに、風合いが増し、街の景観にひと役買っているようです。その代表的な建物がこの松が峰教会です。
昭和7年に建てられたロマネスク様式の双塔の教会は、スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計で、国の登録文化財になっています。外壁、祭壇、柱に至るまで大谷石で造られていて、まさに宇都宮のシンボルです。松が峰教会のホームページ
宇都宮二荒山神社
松が峰教会から大通り方向に進むと、下野を代表する神社「二荒山神社」があります。かつて、「下野一ノ宮」と呼ばれたのが「宇都宮」の地名の由来になったとも。
起源は約1600年前といわれ、社宝の鉄の狛犬と兜は、国の重要文化財となっています。現在の社殿は明治10年に再建されたものだそうです。
ちょうど、七五三詣りのご家族も参拝されていました。
ブラタモリ風に言うと、この場所が北関東のヘリに当たる所で、ここから先が関東平野となるのでしょうか・・・。
戦いの前日の慶応4年4月18日、蓼沼村(現・上三川町東蓼沼)の満福寺に宿陣していた土方歳三、桑名藩兵らは宇都宮城に向かいます。
先鋒隊を指揮していた土方歳三らは梁瀬橋を渡り、宇都宮城に攻め込みます。秋月が率いる中軍は梁瀬橋を渡らず、大手門を攻略します。
二荒山神社には城下町を戦場とされた町人たちが殺到していました。宇都宮城の惨状を二荒山神社から眺めていたことでしょう。
ランチはもちろん餃子!
最近では、宇都宮の代名詞と言えば「餃子の街」ですね。松が峰教会の近くにある「オリオン餃子本店」でランチを頂きました。