日光街道を歩く 7 宇都宮宿・徳次郎宿・大沢宿・今市宿・鉢石宿

宇都宮宿 桂林寺

宇都宮駅前の大通り(奥州道中)から旧日光街道に入ります。郵便局が目印です。しばらく歩くと右手に桂林寺が見えてきます。

桂林寺は、1396年(応永3年)に宇都宮家第12代当主宇都宮満綱によって建立されました。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)の際、慶応4年4月19日に旧幕府軍会津藩が来襲し、当寺に放火して全てを焼き払い、同年4月23日には新政府軍の長州藩兵と大垣藩兵が当寺付近に山砲を並べて旧幕府軍を砲撃したといわれています。

墓所には、蒲生君平戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓があります。

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桜並木と上戸祭の一里塚

松原交差点で国道119号線(日光街道線)と合流します。宇都宮環状線を横断した辺りから杉ではなく桜並木が始まります。桜並木を1Kmほど歩くと上戸祭の一里塚があります。珍しいことに、両塚とも並木の外側に原型をとどめています。

後ろに見える建物は、文星芸術大学の校舎です。

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第六接合井

並木の外側にこんもりとした塚の上にある第六接合井は、大正4年(1915)に建設された水道施設で、浄水の送水管にかかる水圧を調整する役割があるそうです。

レンガ造の上家は国の登録有形文化財に指定されているんです。

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徳次郎宿

徳次郎(とくじら)宿は、下・中・上の3宿で一宿となっています。宿内の家数は168軒、うち本陣は2、脇本陣は3、旅籠は72軒でした。この辺りから、緩やかながら勾配を感じます。

智賀都神社

徳次郎六ヶ郷の鎮守。参道口に見える2本の太いケヤキは「長寿の夫婦ケヤキ」と言われていて、推定樹齢700年。県の天然記念物に指定されています。

少しづつ日陰が大きくなってきました。先を急がねば。智賀都神社ホームページ 

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この辺りからでしょうか、国道119号線(日光街道線)沿いに杉並木が続くようになってきました。

徳次郎の辺りは杉並木の外側に歩道があるので安全なのですが、その先は、途中で歩道が途切れる箇所も。意外に国道を走るトラックが多いので危険極まりない感じです。

時刻は午後3時30分。この場所から大沢宿にある宿泊場所まであと10㎞。かかる時間はおよそ2時間なので、到着は5時30分・・・。

もちろん電灯はほとんどないので・・・案の定、暗闇の歩き旅となりました。

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ようやく午後5時40分頃に「民宿 しんこう苑(日光杉並木ユースホステル)」に到着です。宿泊費は素泊まりで4,500円(ユースホステル会員は3,900円)。

大沢の宿場は、鉄道駅から結構遠い場所なので、日光街道を歩いている方には強い味方です。ぜひ、チェックしてみて下さい。写真は翌日撮った朝靄の民宿です。

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民宿を朝7時に発ちました。日光街道に戻るのに2㎞ほど歩きます。気温が低いためでしょうか、周りの畑にも朝靄がかかっています。

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大沢宿

元和3年(1617)徳川家康日光東照宮遷座に伴い宿場となりました。大沢宿の宿内家数は43軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒でした。

日光杉並木街道

大沢宿から国道119号線に並行して本格的な杉並木の街道が続きます。

しかし、この辺りは観光地ではないので、折角の杉並木の景観なのですが、枯れ木などが残されたままの状態です。おそらく台風の影響かと思います。

f:id:mondo7:20181026224010j:plain大正4年(1915)建立の馬頭観世音。

f:id:mondo7:20181026224041j:plain森友の交差点から1.5㎞ほど離れた杉並木に「桜杉」があります。根元の上の割れ目から山桜が寄生し成長したものです。

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七本桜の一里塚

両塚を残している珍しい一里塚です。北塚の大杉の根元に広い空洞があるところから「並木ホテル」と呼ばれています。確かに大人3人位は入れる広さがあります。塚は特別史跡、杉は特別天然記念物です。

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今市宿

今市宿は日光例幣使街道(壬生道)、会津西街道の追分を控え、大いに賑わいがあった場所です。宿内家数は236軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒ありました。慶応4年の戊辰戦争の兵火に見舞われ、宿並の大半は灰燼となりました。

追分地蔵尊

この地蔵尊は、近くを流れる大谷川の洪水で流され河原に埋もれていたそうです。石工が単なる大石だと思い、ノミを打ったところ真っ赤な血が流れたといわれています。地蔵尊の背中にはこのノミ跡があるそうです。

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例幣使杉並木街道

追分地蔵の反対側には例幣使杉並木街道があります。毎年、徳川家康の命日に朝廷から派遣される例幣使は「金の御幣」を東照宮に奉献していました。一行は、中山道倉賀野宿から日光例幣使街道に入り、今市で日光街道に合流しています。

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銘酒蔵元の渡邊佐平商店

天保13年(1842)創業の銘酒「日光誉」の蔵元です。仕込みには日光山麓の名水を使用しています。店前には湧き出ている名水を自由に汲むことができるようになっていて、地元の人も愛飲しているようです。私も一口いただきました。

いつものように、銘酒「日光誉」をお土産にしました。

渡邊佐平商店のホームページ

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日野為商店

江戸時代から、この今市の日光街道沿いで「叶一」といブランドで味噌・醤油を販売している日野為商店が、2018年7月1日に、創業150周年を機に、気軽に休める街の茶屋「お休み処叶」を併設して、リニューアルオープンしました。

創業1868年(慶応4年)江戸末期の建物をそのままに、店内には、カフェを併設していて、各時代の貴重な生活用品や蔵出しの資料をギャラリーとして展示もしています。

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朝鮮通信使今市客館跡

東武日光線上今市駅の前に杉並木公園があります。日光街道の杉並木と並行して広がる公園内に朝鮮通信使今市客館跡があります。

朝鮮通信使は江戸時代に12回来日し、そのうち3回この場所に宿泊して東照宮に参拝しています。この場所はあまり知られていないようですね。

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公園内には庭園もあり、郷土の風景も感じられます。広葉樹の紅葉がとても綺麗です。秋の深まりを感じました。

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杉並木は大沢宿から17㎞ほど断続していますが、この辺りが一番原風景の雰囲気を漂わせているように感じました。

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砲弾撃(打)込杉

この辺りも戊辰戦争の激戦地でした。杉の幹に新政府軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡があります。また、杉並木の際には、戊辰戦争の戦死者のお墓がいくつもありました。

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明治天皇御休憩所 

明治9年(1877)、東北巡幸の帰途の小休所となりました。

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日光杉並木にあった石仏石塔群。馬力神、馬頭観音、勝善神等が祀られています。

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鉢石宿

鉢石宿は、日光道中最後の宿場。元和3年(1617)徳川家康日光東照宮に祭り、日光参詣が盛んになると門前町として発展し、栄えました。宿内家数は227軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠19軒でした。

JR日光駅

大正元年(1912)8月25日、現在の2代目駅舎が落成しました。ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式の木造洋風建築2階建てで、長らく設計者は不明でしたが、2012年に地元の郷土史家の研究で、当時の鉄道院技手の明石虎雄が設計したものにほぼ間違いないと判明したそうです。

日光は、関東地方の小学校の修学旅行先として歴史があるところなんです。最近では、世界遺産なので外国人観光客の乗降客で溢れていますよ。

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日光駅から東照宮にかかる現在の鉢石宿

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戊辰戦役の芸州藩士墓がある龍蔵寺

建保元年(1213)、源頼朝の忠臣畠山重忠の子重慶の創建。

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本堂の横に戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓がありました。

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日光市庁舎本館

木造3階建、鉄板葺、大正初期建築。日光街道沿いに「大名ホテル」として建築され、昭和29年から市庁舎として使用。

大ぶりな破風を載せた左右翼部を正面に張り出し、中央を望楼風とした城郭風の造り。避暑地日光として知られた当時をしのばせる建物です。

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板垣退助銅像 

神橋の手前に立つ板垣退助銅像板垣退助さんもあまり観光客には知られていないようです。

新政府軍の総督府参謀の板垣退助は日光廟に立て籠もった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守ったことから銅像が建てられているのです。

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日光街道のゴール「神橋」

「神橋」を日光街道のゴールとしています。ようやく完歩です!!

「神橋」は、寛永13年(1636)に架橋されました。将軍社参、勅使、例幣使などの参詣のみに使用されました。橋手前に「下乗石」があり、将軍もここで駕籠から降りて徒歩で日光山内に入ったそうです。

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<特別編 日光東照宮>

日光東照宮に来ました。傘を差すまでもありませんが、小雨が降ってきました。

この辺りの標高は、634メートルで、東京スカイツリーと同じ高さです。

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東照宮に入るための入場券売場には、外国人観光客による長蛇の列ができていたので、今回はここまでにしました。次回にまた参詣したいと思います。

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日光街道ウォークポイント

メモ 2018.10.23  徒歩27㎞  江戸日本橋から日光までの実距離 208.1km (地図上の距離 144.7㎞)

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