戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く③

会津戦争「白虎隊が自刃に到るまで」

二本松城落城と母成峠陥落

白河城の落城後、板垣退助らが率いる新政府軍は、北上し、二本松城に侵攻します。

慶応4年7月29日、二本松城は、新政府への徹底抗戦を誓いますが、城内にはわずかな守備兵がいるのみでした。急遽、少年と老人が駆り出され、二本松少年隊の悲劇が生まれます。

8月20日、新政府軍は二本松城を落城させると、北上せずに本命の会津征伐に向け、軍を発します。母成峠からの進軍は、会津藩にとっては想定外となるルートでした。

8月21日、わずか一日で母成峠の頂上で会津軍本営を落とした新政府軍は、会津領内へと侵入します。

母成峠陥落の報を聞いた松平容保は軍議を開くと、諸家老に新政府軍への遊撃を命じます。作戦は、猪苗代湖の戸ノ口原に進出し、日橋川に架かる十六橋を破壊して敵の進軍を遮断するというものでした。しかし、遊撃できる兵は、白虎隊などの少年兵や老兵などしか残されていませんでした。


会津若松市戊辰150周年記念特別番組予告編

 

猪苗代湖戸ノ口の湖面

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新政府軍、十六橋を占拠

新政府軍の侵攻を食い止めるためにも十六橋の破壊は急務でした。しかし、十六橋は頑丈な石造橋で、破壊は遅々として進みません。そこに、新政府軍が十六橋に到着し、会津軍に一斉射撃を浴びせます。橋の破壊に夢中だった会津軍はこれに驚き、友軍陣地の戸ノ口原まで後退します。そして、8月22日、新政府軍は十六橋を占拠します。

現在の十六橋

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猪苗代から流れ出る日橋川には、古くから十六橋とともに十六橋水門が架かっています。この水門により猪苗代湖の湖水が会津の農業用水として利用されてきました。現在は、猪苗代湖の洪水を防止する大事な役割を持っています。

十六橋と並行して左手に見えるのが十六橋水門

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戸ノ口原の戦い

危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛に滝沢村本陣に出馬します。そして、白虎隊に友軍陣地の戸ノ口原へ進軍するよう命じます。

8月23日早朝、戦闘地域となった戸ノ口原では総勢3千余名の新政府軍に対し、会津軍は3百数十名の兵力しかないため、瞬く間に総崩れとなってしまいます。

そして、戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走することになります。

激戦地となった戸ノ口原にある戊辰戦没者之墓

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 この地で多数の戦死者を出した会津軍は撤退を余儀なくされました。並んでいる暮群から激戦だったことがが伺えます。

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白虎隊が眠る飯盛山

敵軍を避け、何とか飯盛山へとたどり着いた白虎隊の眼に映ったのは、炎に包まれ、黒煙が立ち込めた我が城の惨状でした。

飯盛山の中腹にある史料館「白虎隊記念館

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飯盛山は、会津若松駅から2㎞ほどの所にあります。麓から山頂まで183段の石段があります。今回は酷暑のため、「スロープコンベア」という「動く坂道」を利用して上がりました。大人250円です。

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 白虎隊墓地

鶴ヶ城の惨状を眼にした白虎隊副隊長の篠田儀三郎は、「万一敵の捕虜となったら殿や祖先に対して申し訳が立たない。潔くここで自害することこそ、武士の本懐である」と主張。一同これに同意し、集団自決を遂げることになります。

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自刃した遺体は、そのまま山中に放置されていましたが、戦後、これを哀れに思った村人が、近くにある妙国寺に運び埋葬しました。後に飯盛山に墓を移します。

この時、新政府軍軍監の三宮義胤は新政府の命に逆らい、人道的に埋葬を黙認しています。

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会津藩殉難烈婦碑」は戊辰戦争で自刃または戦死した会津藩婦女子230余命の霊を弔うため、昭和3年に建てられたものです。

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白虎隊のうち、最年少の飯沼貞吉は、脇差で喉を貫いたものの死にきれず、蘇生したところを村人に助けられ、一命を取り止めています。白虎隊の墓地から少し離れた場所に飯沼貞吉の墓があります。

飯沼貞吉は、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、仙台市で78歳の生涯を終えています。

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 白虎隊自刃の地

戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走し、この地から鶴ヶ城が炎に包まれているところを眼にし、この場所で集団自決を遂げました。

白虎隊の石像が顔を向けている方向に鶴ヶ城があります。

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この写真は、白虎隊が眼にしたであろう飯盛山眼下の景色です。もちろん、こんなに住宅が混み合っているはずはありませんが。

なかなか肉眼ではハッキリとは分かりませんでした。

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そこで、前日、鶴ケ城の天守閣から見た「白い細い柱」を目当てに望遠で探したところ、発見できました、美しい赤い屋根瓦の鶴ケ城を。

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 会津さざえ堂

会津さざえ堂は、寛政8年(1796)福島県会津若松市飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。
上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。   

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会津さざえ堂から石段を下ると、清らかな用水が勢いよく流れています。これは、激戦地となった猪苗代湖の戸ノ口にある十六橋水門から取水しているものです。

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 戸ノ口原の洞穴

山腹から湧き出すように用水を押し出している洞穴があります。

猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150メートルの洞穴を潜り、命からがら、飯盛山の中腹へとたどり着いています。

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 松平容保が出馬した史跡「旧滝沢本陣」

史跡「旧滝沢本陣」です。十六橋を突破され、会津に進攻してくることに危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛にこの滝沢本陣まで出馬してきました。

白虎隊は、この滝沢本陣から松平容保の命により激戦地となる戸ノ口原に向かうことになります。

滝沢本陣は、飯盛山から歩いて15分ほどの場所にあります。

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 「白河・会津のみち」ウォークポイント