明治維新戊辰戦争から150年の時を経て

contents

 

  1 日光街道ウォーク

日光街道五街道の一つ。江戸から千住、草加、古河、宇都宮を経て日光までの22宿、約150㎞の街道ウォークです。

日光街道は、江戸時代に諸大名がこの街道を使って徳川家康を祀った日光東照宮までお詣りしていたルートとなっていました。

さらに日光街道(奥州道)は、江戸幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽伏見の戦い、それに続く上野戦争、東北戦争、箱館戦争といった旧幕府軍VS新政府軍(維新軍)の戊辰戦争の爪痕が残る街道でもあります。

今年(2018)は、明治維新150年、会津の側で言えば戊辰戦争150年の節目の年に当たります。その記念として、日光街道を歩いてみました。特徴としては、戊辰戦争にまつわる史跡に焦点を当てているところです。また、上野戦争会津戦争についても併せて記録することにしました。(一部未稿)

(1)日光街道の宿場

 (2)日光街道ウォーク行程表(2018)

日程 宿   場 距離    
1 4.1  日本橋〜千住 8.8km    
    千住〜草加 9.7km    
2 4.21 草加〜越ヶ谷 9.0km    
    越ヶ谷〜粕壁 10.0km    
3 5.2 粕壁〜杉戸 6.6km    
    杉戸〜幸手 5.8km    
    幸手〜栗橋 8.3km    
4 5.19 栗橋・中田・古河 7.4km    
    古河・野木・間々田 9.4km    
5 5.26 間々田〜小山 7.4km    
    小山・新田・小金井・石橋・雀宮 22.1km    
6   雀宮〜宇都宮 7.9km    
    宇都宮〜徳次郎 10.5km    
    徳次郎〜大沢 9.6km    
7   大沢〜今市 7.4km    
    今市〜鉢石 8.5km    
    総距離 147.7km    

 (3)日光街道ウォーク」の魅力

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 ⏩天候不順のため、雀宮宿から日光までの街道歩きは先送りにしています。

 (4)日光街道ウォーク」で参考にした図書

🔳ちゃんと歩ける日光街道奥州街道(山と渓谷社)

🔳戊辰戦争全史(戊光祥出版)

🔳戦況図解戊辰戦争(サンケイ新書)

🔳街道をゆく33 司馬遼太郎「白河・会津のみち、赤坂散歩」(朝日文庫)

🔳伊東潤「維新と戦った男大鳥圭介」(新潮文庫)

🔳戊辰戦争(中公新書)

🔳吉村昭彰義隊」(新潮文庫)

🔳森まゆみ彰義隊遺聞」(新潮文庫)

 

戊辰戦争の旅

(1)会津戦争「白河・会津のみち」ウォーク

①白河の戦い
②会津戦争
③白虎隊自刃まで

今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。

ちなみに会津では、明治維新150年とは決して言いません。戊辰150年なのです。

今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎街道をゆく33「白河・会津のみち」を実際に歩いてみました。

 ①白河の戦い

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 会津戦争

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 ③白虎隊自刃まで

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 (2)「上野戦争」を歩く 

現在でも、谷中、上野公園には、「上野戦争」の爪痕が残されています。今回は、吉村昭の最後の歴史小説彰義隊」をもとに、東叡山寛永寺山主輪王寺宮や 徳川慶喜にスポットを当てながら、戊辰戦争「上野の戦い」ゆかりの地を歩いてみました。

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戊辰150周年「上野戦争を歩く」

上野戦争の爪痕(彰義隊 VS 新政府軍)

鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪城から敗走した徳川慶喜の処遇を巡り、守護している家臣や浪士たち彰義隊は上野寛永寺周辺で新政府軍と戦います。

この戦闘は、上野戦争と呼ばれています。東叡山寛永寺の伽藍は焼失し、多くの彰義隊士の無残な遺体が放置されていたと言われています。

現在でも、谷中、上野公園ではその爪痕が残されています。今回は、吉村昭の最後の歴史小説彰義隊」をもとに、東叡山寛永寺山主輪王寺宮徳川慶喜にスポットを当てながら、ゆかりの地を歩いてみました。

新政府軍の弾痕が残る「経王寺」

日暮里駅南改札から石階段で高台に上がります。高台は、一面広大な谷中霊園です。道路に面した所に「経王寺」があります。

 「経王寺」は、日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称しています。慶応4年(1868)の上野戦争の時、敗走した彰義隊をかくまったため、新政府軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っています。

 歴史が香る谷中の小径

境内に面した道を真っ直ぐ進むと、谷中銀座です。手前に「夕やけだんだん」があります。平日のしかも昼前ですが、結構賑やかです。最近では外国人観光客の姿が多いことに気がつきます。

 

ここから、谷中霊園、上野公園に目指して小径を歩きます。この辺りは、昔ながらの風情が残っていて歩くのも苦になりません。

この写真は、「初音小路」という小さな飲み屋街です。昭和レトロの佇まいが何とも言えませんね。

 

こちらは大正の頃の建物でしょうか、谷中の風情が感じられる建物です。後世にも残しておきたいものです。

 

脇道に入ると築地塀(観音寺)も見ることができ、小江戸の情緒が感じられます。この築地塀には、今も上野戦争の弾痕が残っていると言われています。国の登録有形文化財です。

 

この道沿いには、朝倉彫塑館や幸田露伴旧宅跡、北原白秋旧宅などがあります。また、おしゃれな小物を置いているお店もあって見所満載です。

谷中霊園は、厳格な柵がないので、街なかにごく自然に溶け込んでいるような印象を与えています。

訪れるのは、徳川慶喜のお墓です。矢印で案内表示されているので、そのとおりに歩いていくと辿り着くことができます。

 

 徳川慶喜が眠る谷中霊園

吉村昭の『彰義隊』は、第15代将軍徳川慶喜鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰るところから始まります。

江戸に戻った慶喜は、賊徒、朝敵として厳罰を恐れ、自ら寛永寺に謹慎します。その後、和宮勝海舟などの働きかけがあって、江戸は無血開城され、慶喜は水戸家で謹慎することになります。その間、上野寛永寺山主の輪王寺宮慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走していました。

その後、慶喜は、水戸から駿府(静岡)に移り謹慎します。謹慎が解かれた後も静岡に住み続け、明治30年になって、東京に転居します。そして大正2年、77歳で亡くなります。

慶喜は、徳川家の菩提寺ではなく、谷中霊園内に墓地を設けます。お墓は写真のように神式によるものです。

一方、皇族の身にも拘らず、朝敵となった上野寛永寺山主の輪王寺宮は、上野戦争彰義隊が敗北したことにより、身の危険を感じ、身寄りを訪ね一時身を隠します。しかし、新政府軍の追っ手から逃れることが厳しいと思った輪王寺宮は、幕府艦船で奥州へと逃走の旅を始めるのです。果たしてその先で輪王寺宮に待ち受けているものは・・・。

左側が慶喜、右側が正室の美智子の墓です。

 

 谷中霊園の中に御隠殿坂(ごいんでんざか)という坂があります。これは、寛永寺から輪王寺宮の別邸に行くために設けられたもので、「鉄道線路を経て」と記されているとおり、現在も鉄道線路の高架橋に繋がっています。

 

 寛永寺に向かう途中、行列ができているケーキ屋さんを発見。このケーキ屋さんは、「パティシエ イナムラショウゾウ」のお店でした。意外にも、並んでいるのは、高校生を含め、男性ばかりなのに驚きました。時代が変わりましたね。

 

谷中霊園に向き合うように寛永寺根本中堂(当時の根本中堂は上野公園の噴水広場の辺り)が建っています。日暮里駅からのんびり歩いて1時間ほどで到着します。

東叡山寛永寺は、天海大僧正寛永2年(1625)に上野の山に造営したもので、比叡山京都御所の鬼門であるように、江戸城の鬼門の守りを意図して造ったもので、輪王寺宮が山主を勤めてきたお寺です。鳥羽伏見の戦いに敗れ、逃げ帰った徳川慶喜はこのお寺の一室で謹慎をしていました。

 

東京国立博物館の隣に寛永寺輪王寺宮墓地があります。輪王寺宮の墓地を見ることはできませんが、当時の寛永寺旧本坊表門を直に触れることができます。

 

上野戦争の際に撃たれた弾痕がいくつも残されています。中には、当時の弾丸が弾痕に残っているものまでもあります。

 

 江戸初期から戊辰戦争の爪痕が残る上野公園

他にも、幕末の戦乱や寛永寺の面影を残す史跡が上野公園にあります。

上野公園噴水広場の横にあるプレートは、初代歌川広重による寛永寺全景を描いた浮世絵です。プレートの横には、寛永寺根本中堂跡の解説板があり、当時この場所に寛永寺根本中堂をはじめ、伽藍が建てられていたことがわかります。これらの塔頭は慶応4年の上野戦争で焼き払われています。

 

現在の噴水広場の様子です。突き当たりに見える建物は東京国立博物館です。上野戦争で焼き払われるまで、ここに東叡山寛永寺の伽藍がありました。

現在、その場所にはたくさんのカラーコーンが置かれていますが、一体何だと思いますか。上野動物園のパンダの赤ちゃん「香香(シャンシャン)」の入場整理券を待つ人用に急遽設けられたもののようです。今だに何千人もの人が並ぶそうですよ。

 

こちらは、1651年(慶安4年)に三代将軍徳川家光が造営した上野東照宮です。上野戦争寛永寺の伽藍が焼失してしまいましたが、この上野東照宮には火の手が及びませんでした。

 

何年か前に化粧替えしたので美しい姿が蘇っています。

 

その先に寛永8年(1631年)に建立された上野大仏様があります。この大仏様は、安政地震関東大地震の際に頭部が落下し、第二次大戦では胴体部分が軍需のため金属供出されてしまいます。

今では、「これ以上落ちない」ということから受験の神様として崇められています。隠れたパワースポットですね。

 

上野大仏前の植え込みに新潟県の草花「雪割草」が可憐に咲いていました。

 

京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂。上野戦争関東大震災からも免れました。

正面に立つ「月の松」は、平成24年に再建されたもの。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれています。

 

水観音堂に上がり、「月の松」から先を望むと不忍池の弁財天が見えます。

 

不忍池の弁財堂は、琵琶湖に浮かぶ小さな島「竹生島」のお堂を見立てて造営したものです。6月下旬から8月上旬には蓮の花が湖面いっぱいに咲き誇ります。

 

慶應4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮による新政府軍は上野を総攻撃します。いわゆる上野戦争です。

新政府軍が備えた最新の銃器の効果は大きく、彰義隊は夕刻にはほぼ全滅し、一部の者たちが根岸方面に敗走していきます。あらかじめ、大村増次郎が被害を大きくしないようにわざと敗走できるようにと根岸方面の一角に軍隊を配置しないでいたためです。

彰義隊士の遺体は上野山内に放置されていましたが、南千住の円通寺の住職らによってこの場所で荼毘に付されました。

彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、政府を憚って、墓標には「彰義隊」の文字はありません。旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が墓標に刻まれています。一部の遺骨は南千住の円通寺に埋葬されています。

 

彰義隊の墓の近くに、西郷隆盛像があります。明治31年(1898)に建設されています。高村光雲の作です。設置場所については、議論が重ねられたようですが、西郷隆盛ゆかりの地ということで、上野に落ち着いたようです。明治政府にとれば、旧幕府軍を制圧した記念の像と言えるのかもしれません。

 

上野公園の玄関口では桜が満開です。この桜の木は、上野公園で最も早く咲く大寒桜です。ここから上野広小路を抜けて、湯島天神(神社)に向かいます。

 

朝廷軍が駐屯した湯島天神

路地の先に湯島天神が見えます。路地を抜け、女坂の階段を上がります。この辺り一帯は江戸の頃は茶屋街があって随分と賑わいがあったそうです。写真の建物にも風情を感じます。

 

受験シーズンも終わり、学生の姿は見えませんが、ぎっしりと飾られた絵馬やおみくじに受験の神様の人気ぶりが現れています。この湯島天神に新政府軍が駐屯していました。

 

彰義隊結成の地「浅草東本願寺

上野から都営浅草線に乗り、田原町駅で下車します。しばらく歩くと、彰義隊が結成された浅草東本願寺があります。残念ながら当時を偲ぶものはありません。

 

 輪王寺宮が身を寄せた浅草「東光院

浅草東本願寺から合羽橋道具街方面に10分ほど歩いた所に「東光院」があります。このお寺は、上野の戦渦から抜け出た輪王寺宮がお付きの者と土砂降りの雨の中を必死で上野から逃れ、最初に身を寄せた場所です。この後、市ヶ谷の自証院に匿ってもらいます。 

 

 彰義隊士が眠る「円通寺

南千住駅から徒歩10分程の円通寺があります。
円通寺は、彰義隊をはじめ旧幕臣の墓石などがあります。また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。

 上野戦争の発端は、江戸は無血開城となったものの、これを認めずに、気勢をあげる彰義隊は日に日に、勢力を拡大していきました。そしてついには上野戦争が勃発し、しかし新政府軍の圧倒的な戦力差に彰義隊は、わずか一日で敗れます。

斃れた隊士の遺体は、朝敵ということで、野ざらしとされ上野の山は、地獄の様相となったと言われています。

この様子に、さすがに見かねた「円通寺」の住職である仏麿和尚らが協力し、彼らの遺体の一部である266体の遺体を「円通寺」に埋葬したのです。このような縁から現在、荒川区南千住の「円通寺」には、彰義隊をはじめ、新政府軍に戦いを挑んでいった旧幕臣らの墓や碑が数多く建立されています。

 

 

上野戦争の激戦地、黒門口に建てられていた「黒門」。無数の銃弾痕が、生々しく激戦の様子を伝えています。

 

 

墓石は、榎本武揚によって建てられました。墓碑銘も榎本の筆によるものです。

 

吉川英治の小説「松のや露八」の主人公として知られる松廼家露八こと土肥庄次郎の碑。碑の題字は榎本武揚によるもの。残念ながら、碑の上部が折れてしまっています。

 

江戸を脱し、木更津で戦死した旧幕臣、中田正廣の碑。正面の題字は榎本武揚の筆、碑文は山岡鉄舟の長男山岡直記によるものです。

 新政府軍の追っ手が忍び寄る中、輪王寺宮は江戸から離れる決意をし、会津、米沢、仙台と諸国を落ちのび、数奇な人生を送ることになります。

戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く③

会津戦争「白虎隊が自刃に到るまで」

二本松城落城と母成峠陥落

白河城の落城後、板垣退助らが率いる新政府軍は、北上し、二本松城に侵攻します。

慶応4年7月29日、二本松城は、新政府への徹底抗戦を誓いますが、城内にはわずかな守備兵がいるのみでした。急遽、少年と老人が駆り出され、二本松少年隊の悲劇が生まれます。

8月20日、新政府軍は、二本松城を落城させると、いよいよ会津征伐に向け、軍を発します。奥州街道から会津若松へは、母成峠を通るルートです。

8月21日、わずか一日で母成峠の頂上で会津軍本営を落とした新政府軍は、会津領内へと侵入します。

母成峠陥落の報を聞いた松平容保は軍議を開くと、諸家老に新政府軍への遊撃を命じます。作戦は、猪苗代湖の戸ノ口原に進出し、日橋川に架かる十六橋を破壊して敵の進軍を遮断するというものでした。

猪苗代湖戸ノ口の湖面

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新政府軍、十六橋を占拠

新政府軍の侵攻を食い止めるためにも十六橋の破壊は急務でした。しかし、十六橋は頑丈な石造橋で、破壊は遅々として進みません。そこに、新政府軍が十六橋に到着し、会津軍に一斉射撃を浴びせます。橋の破壊に夢中だった会津軍はこれに驚き、友軍陣地の戸ノ口原まで後退します。そして、8月22日、新政府軍は十六橋を占拠します。

現在の十六橋

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猪苗代から流れ出る日橋川には、古くから十六橋とともに十六橋水門が架かっています。この水門により猪苗代湖の湖水が会津の農業用水として利用されてきました。現在は、猪苗代湖の洪水を防止する大事な役割を持っています。

十六橋と並行して左手に見えるのが十六橋水門

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戸ノ口原の戦い

危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛に滝沢村本陣に出馬します。そして、白虎隊に友軍陣地の戸ノ口原へ進軍するよう命じます。

8月23日早朝、戦闘地域となった戸ノ口原では総勢3千余名の新政府軍に対し、会津軍は3百数十名の兵力しかないため、瞬く間に総崩れとなってしまいます。

そして、戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走することになります。

激戦地となった戸ノ口原にある戊辰戦没者之墓

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 この地で多数の戦死者を出した会津軍は撤退を余儀なくされました。並んでいる暮群から激戦だったことがが伺えます。

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白虎隊が眠る飯盛山

敵軍を避け、何とか飯盛山へとたどり着いた白虎隊の眼に映ったのは、炎に包まれ、黒煙が立ち込めた我が城の惨状でした。

飯盛山の中腹にある史料館「白虎隊記念館

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飯盛山は、会津若松駅から2㎞ほどの所にあります。麓から山頂まで183段の石段があります。今回は酷暑のため、「スロープコンベア」という「動く坂道」を利用して上がりました。大人250円です。

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 白虎隊墓地

鶴ヶ城の惨状を眼にした白虎隊副隊長の篠田儀三郎は、「万一敵の捕虜となったら殿や祖先に対して申し訳が立たない。潔くここで自害することこそ、武士の本懐である」と主張。一同これに同意し、集団自決を遂げることになります。

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自刃した遺体は、そのまま山中に放置されていましたが、戦後、これを哀れに思った村人が、近くにある妙国寺に運び埋葬しました。後に飯盛山に墓を移します。

この時、新政府軍軍監の三宮義胤は新政府の命に逆らい、人道的に埋葬を黙認しています。

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会津藩殉難烈婦碑」は戊辰戦争で自刃または戦死した会津藩婦女子230余命の霊を弔うため、昭和3年に建てられたものです。

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白虎隊のうち、最年少の飯沼貞吉は、脇差で喉を貫いたものの死にきれず、蘇生したところを村人に助けられ、一命を取り止めています。白虎隊の墓地から少し離れた場所に飯沼貞吉の墓があります。

飯沼貞吉は、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、仙台市で78歳の生涯を終えています。

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 白虎隊自刃の地

戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走し、この地から鶴ヶ城が炎に包まれているところを眼にし、この場所で集団自決を遂げました。

白虎隊の石像が顔を向けている方向に鶴ヶ城があります。

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この写真は、白虎隊が眼にしたであろう飯盛山眼下の景色です。もちろん、こんなに住宅が混み合っているはずはありませんが。

なかなか肉眼ではハッキリとは分かりませんでした。

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そこで、前日、鶴ケ城の天守閣から見た「白い細い柱」を目当てに望遠で探したところ、発見できました、美しい赤い屋根瓦の鶴ケ城を。

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 会津さざえ堂

会津さざえ堂は、寛政8年(1796)福島県会津若松市飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。
上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。   

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会津さざえ堂から石段を下ると、清らかな用水が勢いよく流れています。これは、激戦地となった猪苗代湖の戸ノ口にある十六橋水門から取水しているものです。

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 戸ノ口原の洞穴

山腹から湧き出すように用水を押し出している洞穴があります。

猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150メートルの洞穴を潜り、命からがら、飯盛山の中腹へとたどり着いています。

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 松平容保が出馬した史跡「旧滝沢本陣」

史跡「旧滝沢本陣」です。十六橋を突破され、会津に進攻してくることに危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛にこの滝沢本陣まで出馬してきました。

白虎隊は、この滝沢本陣から松平容保の命により激戦地となる戸ノ口原に向かうことになります。

滝沢本陣は、飯盛山から歩いて15分ほどの場所にあります。

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 「白河・会津のみち」ウォークポイント

戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く②

会津に入る

大内宿を後に、国道118号線で会津に入ります。国道と並行して「会津鉄道線」が通っています。途中、風情が残る芦ノ牧温泉を越え、道は一気に下ります。市内に入り、しばらくすると会津鶴ヶ城が左手に見えてきます。

会津藩は、幕末に入り、数奇な運命を辿っていきました。

会津中将松平容保が、藩兵を率いて京に入ったのは、戊辰(明治維新)から6年前の文久2年(1862)12月24日。そして、新選組が、京都守護職としての容保の差配に入ったのは、容保が上洛して10ヶ月後のことだった。それも容保の側から進んでそうしたのではなく、幕府が、付属させたのである。 

ただ、新選組の苛烈な白刃によって、都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。恨みは、会津藩に向けられ、やがて会津攻めになって晴らされる。(「街道をゆく」)

戊辰150周年を迎え、至る所で戊辰ののぼり旗を目にします。鶴ヶ城天守閣では幕末特集が行われています。

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会津藩の歴史に触れる

ここで、少し会津藩史に触れてみます。 

(会津藩史 その1)

元々、「黒川」という地名を「会津若松」という地名に変えた人物は蒲生氏郷(1556-95)です。蒲生氏は近江の名族でした。信長の三女冬姫の婿になった蒲生氏は秀吉からも優遇され、伊勢松坂12万石に封じ、商業都市へと発展させます。後に、秀吉は、蒲生氏を奥州会津、当時の黒川に転封させます。

奥州五十余郡の武の地で、よほどの器量の者を会津にすわらせてその鎮めにせねばならないということだったのだろう。

町割もし、商工業の基礎もつくった。かつて氏郷とともに伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人たちが、今度は会津までやってきて、城下に日野町(後に甲賀町)という商工業の町を形成した。氏郷は、城下の名も変えた。「若松」とした。(「街道をゆく」)

会津鶴ヶ城天守閣で行われていた全館幕末特集を見学しました。

会津鶴ヶ城全館幕末特集のご案内

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(会津藩史 その2)

藩祖は、保科正之(1611-72)である。この人の思想と人柄が、後々まで会津藩を性格づけた。

ともかくも会津藩は85%の中間層のおかげで密度高い藩風が確立したのである。さらには、教育水準を高めることにも役立ち、もう一つは結束力もつよくなった。

藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。

会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩松平容保(1835-93)を起用して"京都守護職"にしたことである。(「街道をゆく」)

写真は、天守閣の最上階(5階)にある展望台から眺めた景色です。

中央手前に見えるこんもりとした山が、白虎隊が自決を遂げた「飯盛山」です。目印は、「白くて細い柱」です。そして、左奥にそびえているのが会津磐梯山

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 中央手前に見えるこんもりとした山は「小田山」です。戦いの終盤、新政府軍は鶴ヶ城の外廊を固め、「小田山」を占領し、台場を築き、アームストロング砲や4ポンド山砲など20数門を据え、眼下の鶴ヶ城に向けて砲撃を開始しました。 

以前は、鶴ヶ城の屋根瓦は「黒瓦」でしたが、7年ほど前に幕末当時の「赤瓦」に葺き替えられています。

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桜「はるか」も成長してます

平成25年には女優の綾瀬はるか新島八重役で主演を務めたNHK大河ドラマ「八重の桜」が放送されていました。ご覧になった方も多かったでしょう。 そのご縁で、綾瀬はるかさんが、鶴ヶ城公園の一角に桜の植樹をしています。その桜の名はズバリ「はるか」です。今ではこんなに成長しています。

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綾瀬はるかさんが植樹祭の際にメッセージを送られていますが、そのメッセージが桜「はるか」の前に置かれています。

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新撰組副長「土方歳三」が療養した東山温泉

新撰組副長「土方歳三」は、幕末の新政府軍との戦いながら、北上します。 新政府軍との宇都宮の戦いで足を負傷した土方歳三は、傷に良く効くとされる東山温泉で療養したと言われています。

東山温泉と土方歳三 

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土方歳三が天寧寺に建立した「近藤勇の墓」

 土方歳三は、会津療養の間に、天寧寺で「近藤勇の墓」を建立します。 「近藤勇の墓」には伝説があり、京都にさらし首になっていた近藤の首を、土方が齋藤一に取りに行かせ、 その首を、会津の地に葬ったとも、遺髪のみを埋葬したとも言われています。 「近藤勇の墓」を建立する際、土方はじめ、齋藤一などのメンバーも天寧寺に滞在した記録が残っています。

天寧寺と近藤勇

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天寧寺本堂までは車で入ることができますが、そこから近藤勇のお墓までは山道を歩きます。境内には案内看板があるのですぐ分かりますよ。その他にも、戊辰戦争の責任者であった萱野権兵衛、そしてその次男郡長正のお墓があります。

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左が近藤勇の墓です。右は土方歳三の慰霊碑です。

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天寧寺には、「会津士魂」の碑が作家早乙女貢の墓碑と並んで建てられています。

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 七日町通りに残る幕末の史跡

七日町通りを歩きます。七日町通りは会津五街道のうち米沢、越後、下野(途中桂林寺通りを経由)の主要な街道となる城下町の重要な通りで、江戸時代から昭和時代にかけて会津一の繁華街として賑わいを見せていました。その名残りは古い蔵や洋館、木造町家の建物に見ることができます。

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幕末の志士たちが立ち寄った清水屋旅館跡

土方歳三は、宇都宮城攻防戦で足を負傷したあと、会津へ向かい清水屋旅館に投宿しました。土方はこの旅館で各地を転戦していた多くの新選組のメンバーと再会しています。また、長州の吉田松陰もその若き日に東北旅行に出かけ、途中、会津のこの旅館に立ち寄っています。当時は三階建ての格式の高い旅館で、多くの名士たちが投宿しましたが、昭和初期に取り壊され、現在は大東銀行会津若松支店となっています。

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 会津東軍墓地のある阿弥陀寺

七日町駅の近くにある「阿弥陀寺」に「会津東軍墓地」があります。

阿弥陀寺会津戦争の東軍戦死者1281体が埋葬されています。阿弥陀寺の他に長命寺に145体が葬られています。この寺以外には許されませんでした。
9月22日の戊辰戦争集結後、西軍の命で放置され、触ることも許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのが明治2年2月の事です。
しかしあくまでも賊軍としての埋葬で「戦死墓」の文字以外は許されませんでした。

阿弥陀寺と戊辰戦争

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右方の碑は「戦死墓」とありこの墳墓の表石です。左方の碑が「報国尽忠碑」で明冶十年の西南戦争で薩摩軍と戦って戦死した旧会津藩士の碑で、佐川官兵衛他71名の旧会津藩士の名が刻んであります。そして後方の碑は戦争の全責任を一身に受けて切腹した「会津藩萱野権兵衛長修遥拝碑」があります。

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新選組三番隊組長の斎藤一の墓

また、阿弥陀には新選組三番隊組長の斎藤一のお墓があります。斎藤一は、戊辰戦争で新政府軍が会津に攻めてきた折、負傷していた副長の土方さんに変わって指揮をとりました。

その後、斎藤一は「会津を見捨てることはできない」と、北へ向かった土方歳三と別れて会津に留まります。戦争終結後は藤田五郎と名を変えて、警視庁に勤務し西南戦争で活躍します。大正4(1915)年に72歳で往生を遂げた斎藤は、後半生を会津人として生きた彼の希望により、ここ阿弥陀寺に葬られています。

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鶴ヶ城唯一現存する遺構「御三階」

 斉藤一の墓地の向かいには鶴ヶ城の唯一の遺構「御三階」があります。

明治3(1870)年、新政府軍に解体された鶴ヶ城の小天守にあたる御三階は阿弥陀寺に移築されました。外見は三階建てですが、内部は四階建てになっています。最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、かつて鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使われていたと言われています。当時の鶴ヶ城の遺構として、現存する唯一の建物です。

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白木屋漆器

約300年前に創業された老舗漆器店。店内には食器からアクセサリーまで1000種類以上の会津漆器が揃っています。七日町通りに面した建物は大正3年に竣工した土蔵造り。

白木屋漆器店

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2階に上がると、漆器美術品が展示されています。

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戊辰戦争の刀痕が残る鈴木屋利兵衛

黒い土蔵造りの鈴木屋利兵衛は、安永年間の創業で、伝統工芸品会津絵やオリジナルの漆絵、民芸品を取り扱っている老舗商店。鈴木屋利兵衛は、一時、新政府軍の軍事基地として占拠使用されていたことから、焼失を免れています。店内にある柱には今も刀痕が残されています。

鈴木屋利兵衛

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会津藩松平容保の書がある末廣酒造

会津の地酒で有名な末廣酒造です。嘉永3年(1850)創業の酒蔵。魅力は、酒蔵を解説付きで見学できることです。もちろん、試飲もできますよ。

末廣酒造

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2階には、酒蔵を改造したコンサートホールまであります。今年の5月にはジャズ界のレジェンド渡辺貞夫さんの演奏があったそうです。また、大広間は当時のまま保存されています。藩主松平容保の書は見る価値がありますね。

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夕食は、会津一の海産物問屋 「渋川問屋」

阿弥陀寺の近くに、明治時代、会津一の海産物問屋だった渋川問屋があります。渋川問屋には、明治時代に建築された蔵や大正時代の木造家屋などの建物を当時のままに残されていて、会津商家の面影をとどめています。

渋川問屋と郷土料理

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渋川問屋は、もともと郷土料理の料理の材料を扱う海産物問屋だったので、本格的な町方料理をコースで楽しめる会津の老舗料理屋です。

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 渋川問屋の藍染の暖簾を潜ると、明治時代当時のままの問屋の設えが広がっていて、郷土料理にも期待が膨らみます。

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予約をして来られる方がほとんどのようです。座敷も当時のままで、中央には囲炉裏端があります。

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 会津郷土料理は全てコースとなっています。今回は「祭り御膳 亀コース」をお願いしました。着座すると、すぐに「食前酒」と「先付け」、「ニシンの山椒漬け」、「ニシンの昆布巻き」が配膳されました。この後、「紅鮭寿司」や会津の冠婚葬祭時に必ず出される「こづゆ」、極上の献上牛とされる会津塩川牛ステーキ等々をいただきました。

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会津に残る幕末の史跡 

戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く①

白河小峰城戊辰戦争

今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。

ちなみに会津では、明治維新150年とは決して言いません。戊辰150年なのです。

今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎街道をゆく33「白河・会津のみち」を歩いてみました。最初に訪れた白河は、江戸日本橋から奥州街道を歩いて27番目の宿場です。

白河の中心は、小峰城(白河城)跡です。古くから奥州の関(入口)として要衝の地とされてきました。慶応4年(1868)閏4月20日、この地で100日間にわたり激戦「白河城(口)の戦い」が起きました。

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白河小峰城の激戦

特に鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた会津は、新政府軍(薩長土肥)の報復の対象とされ、東北諸藩に会津藩追討令が出されます。しかし、仙台藩をはじめ新政府軍に抗う東北諸藩は同盟を結び、結束して行動します。

戊辰戦争の2年前(慶応2年)、それまで白河藩主だった阿部氏が隣の棚倉藩に転封され、白河城は藩主なしのまま、二本松藩の預かりという形で戊辰を迎えます。

会津藩は、宇都宮方面に侵攻している新政府軍が奥州の要衝の地である白河に至るまでに白河城を奪取する計画をたてます。すると、守備を固めていた二本松藩ら東北諸藩は無抵抗で撤退します。実は、事前に会津藩と東北諸藩が密約が交わしていたのです。

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白河城を巡る緒戦では、新政府軍に対して優位に立っていた会津藩でしたが、陣容の立て直しを図った新政府軍は、最新鋭の銃火器に物を言わせ、攻防戦を繰り広げます。

仙台藩や棚倉藩、二本松藩の援軍を加えたものの、会津を中心とする同盟軍は劣勢にまわり、落城します。同盟軍の死者は700余命にのぼりました。

この戦いにより、白河城内の建物の多くは焼失してしまいました。

平成3年、小峰城の三重櫓は木造で忠実に復元され、現在では、往時を偲ぶことができます。

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700余名が亡くなった「白河口の戦い」のなかでも激戦地の「稲荷山」は砲撃、銃撃戦が激しく、多くの弾丸が周辺の杉林に撃ち込めれました。これらの杉を三重櫓の復元のために伐採、製材したところ、戦闘時の弾丸が数多く発見されました。この弾丸の跡は1階の通し柱と床板に見ることができます。

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戊辰の役古戦場(「白河口の戦い」)

次に訪れた場所は、最も激戦地となった稲荷山の麓です。慶応4年(1868)5月1日、一日で会津藩仙台藩など奥羽越列藩同盟の諸藩700余命が戦死したとされています。一方、新政府軍の死者は10名でした。

のぼり旗には「白河戊辰戦争 甦る仁のこころ」と記されています。

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戦死墓

この碑は、会津藩戦死者を弔うため、戊辰戦争後まもなく地元の人びとが建立したものです。

白河藩は藩主がいなかったため、戊辰戦争には参戦せずに済んだものの、戦場となりました。白河の庶民は、戦争の時は息をひそめて済むのを待ち、戦闘が終わると、そのつど両軍の戦死者を埋葬してきました。以後、ほとんど無縁仏になった戦死者の墓を150年間守ってきたのです。

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田邊軍次君之墓

戦死墓碑の隣に「田邊軍次君之墓」があります。ここにも戊辰戦争の悲話が遺されていました。

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長州大垣藩戦死六名墓(松並地区)

道を挟んで、向かいに新政府軍の長州藩士3名、大垣藩士3名の墓があります。

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会津西街道「大内宿」を歩く

白河を後に、会津若松に向かいます。司馬遼太郎の「街道をゆく〜白河・会津のみち」と同様、大内宿を経由します。那須岳や旭岳が連なる奥羽山脈を抜ける国道289号線(甲子道路)の途中には長いトンネルがあります。その長いトンネルを抜け、下り切ると会津西街道(国道121号線)にぶつかります。土方歳三も宇都宮の闘いで足を負傷したあと、この会津西街道を通って会津鶴ヶ城に入りました。

このみちは会津と日光をつなぐ街道でもあることから、会津の人は「日光街道」とも呼んでいます。また、国道121号線は、会津鉄道線と並行していて、途中には「塔のへつり」や「芦ノ牧温泉」などの有名な観光地が集積しています。

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宿場の女将さんが、乾ききった土の路面に長い柄杓で打ち水をしてくれています。大内宿は、江戸時代の宿場がそのまま残されていて、まるでタイムスリップしたような気分に浸ることができます。

江戸時代、この街道は、会津から越後や関東に出るための裏街道としてつかわれてきた。主として、この裏街道は会津藩の廻米(かいまい)を江戸に送るための道で、宿場はその荷役をつとめる問屋の働きをつとめていた。(「街道をゆく」)

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 江戸時代のこの宿場の暮らしは、半宿半農だったことが、明治後に幸いした。一戸あたり平均二反歩ほどの水田と、全体で七十町歩もある畑が、人びとの暮らしを支えた。明治後、宿場は廃れた。特に明治のある時期に他に道路ができたため、大内宿は孤立してしまった。それでもなお村の旧観が残っているのは、奇蹟に近い。(「街道をゆく」)

浅沼食堂の「冷やし宿場そば」

宿場の端から端まで歩き、突き当たりにある立派な棟の「浅沼食堂」で昼食をとります。

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浅沼食堂さんの店内です。冷房はありませんが、縁側から吹き込む風がとても気持ち良いのです。

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ヤマメ料理もあるので、夏でも囲炉裏が焚かれています。

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大内宿というと、箸の代わりにネギを使った「ネギ蕎麦」が有名なのですが、今回は、浅沼食道で一番人気の「冷やし宿場そば」を頂きました。なめこ大根おろし・山菜・かつお節が入っていてとても美味しいですよ。900円です。

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大内宿で最も高台にある浅沼食堂の縁側から撮った一枚です。

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食後、浅沼食堂の裏手にある石段を上がり社にお参りします。

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 大内宿見晴台

社の並びに大内宿全体が一望できる大内宿見晴台があります。大内宿にお越しの際にはオススメのビューポイントですよ。このあと、一路「会津鶴ヶ城」を目指します。

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 「白河・会津のみち」旅のポイント

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 明治維新戊辰戦争から150年の時を経て

contents

 

  1 日光街道ウォーク

日光街道五街道の一つ。江戸から千住、草加、古河、宇都宮を経て日光までの22宿、約150㎞の街道ウォークです。

日光街道は、江戸時代に諸大名がこの街道を使って徳川家康を祀った日光東照宮までお詣りしていたルートとなっていました。

さらに日光街道(奥州道)は、江戸幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽伏見の戦い、それに続く上野戦争、東北戦争、箱館戦争といった旧幕府軍VS新政府軍(維新軍)の戊辰戦争の爪痕が残る街道でもあります。

今年(2018)は、明治維新150年、会津の側で言えば戊辰戦争150年の節目の年に当たります。その記念として、日光街道を歩いてみました。特徴としては、戊辰戦争にまつわる史跡に焦点を当てているところです。また、上野戦争会津戦争についても併せて記録することにしました。(一部未稿)

(1)日光街道の宿場

 (2)日光街道ウォーク行程表(2018)

日程 宿   場 距離    
1 4.1  日本橋〜千住 8.8km    
    千住〜草加 9.7km    
2 4.21 草加〜越ヶ谷 9.0km    
    越ヶ谷〜粕壁 10.0km    
3 5.2 粕壁〜杉戸 6.6km    
    杉戸〜幸手 5.8km    
    幸手〜栗橋 8.3km    
4 5.19 栗橋・中田・古河 7.4km    
    古河・野木・間々田 9.4km    
5 5.26 間々田〜小山 7.4km    
    小山・新田・小金井・石橋・雀宮 22.1km    
6   雀宮〜宇都宮 7.9km    
    宇都宮〜徳次郎 10.5km    
    徳次郎〜大沢 9.6km    
7   大沢〜今市 7.4km    
    今市〜鉢石 8.5km    
    総距離 147.7km    

 (3)日光街道ウォーク」の魅力

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 ⏩天候不順のため、雀宮宿から日光までの街道歩きは先送りにしています。

 (4)日光街道ウォーク」で参考にした図書

🔳ちゃんと歩ける日光街道奥州街道(山と渓谷社)

🔳戊辰戦争全史(戊光祥出版)

🔳戦況図解戊辰戦争(サンケイ新書)

🔳街道をゆく33 司馬遼太郎「白河・会津のみち、赤坂散歩」(朝日文庫)

🔳伊東潤「維新と戦った男大鳥圭介」(新潮文庫)

🔳戊辰戦争(中公新書)

🔳吉村昭彰義隊」(新潮文庫)

🔳森まゆみ彰義隊遺聞」(新潮文庫)

 

戊辰戦争の旅

(1)会津戦争「白河・会津のみち」ウォーク

①白河の戦い
②会津戦争
③白虎隊自刃まで

今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。

ちなみに会津では、明治維新150年とは決して言いません。戊辰150年なのです。

今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎街道をゆく33「白河・会津のみち」を実際に歩いてみました。

 ①白河の戦い

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 会津戦争

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 ③白虎隊自刃まで

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 (2)「上野戦争」を歩く 

現在でも、谷中、上野公園には、「上野戦争」の爪痕が残されています。今回は、吉村昭の最後の歴史小説彰義隊」をもとに、東叡山寛永寺山主輪王寺宮や 徳川慶喜にスポットを当てながら、戊辰戦争「上野の戦い」ゆかりの地を歩いてみました。

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日光街道を歩く5-②小山宿から新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿

小山宿 

小山といえば、徳川家康関ヶ原の戦いを決断した「小山評定」のイメージが強いのですが、幕末、戊辰戦争で凄まじい戦場となった場所でもあるのです。

戊辰戦争「小山の戦い」の舞台とは

慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡されます。

その頃、幕府歩兵奉行の大鳥圭介駿河台の自邸を離れ、墨田区太平の「報恩寺」に入っていました。

江戸開城に納得せず、徹底抗戦を志す土方歳三新撰組、伝習隊、桑名藩士らとともに、大鳥圭介は総督として日光を目指し、行動を起こしたのです。その先には、会津がありました。

集まった総勢2千数百人を3隊に編成します。先鋒は、会津藩士の秋月登之助を隊長に、土方歳三を参謀とした伝習隊第一・桑名藩士・新撰組で構成、中軍は、大鳥圭介を隊長に伝習隊第二が中心、後軍は、幕臣の米田桂次郎を隊長に歩兵第二連隊が中心となり別ルートで宇都宮、日光を目指したのです。

写真は、駅前上町の歩道橋から見た日光街道です。前方は宇都宮方面。

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 日光街道沿いには、「思季彩館」という観光交流センターがあります。残念ながら月曜休館でした。旧八百忠という商家と石蔵を利用した建物です。

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 旧幕陸軍の勝利に終わった「第一次小山戦争」

当時すでに宇都宮城は、新政府軍の管轄下に置かれており、新政府軍の軍監 香川敬三は旧幕陸軍を攻撃するため、宇都宮城から小山方面に進軍を命じます。

一方、旧幕陸軍の3隊と別ルートで出立していた旧幕府草風隊(西洋式調練をマスターした旧幕臣子弟200人)は、急ピッチで北上していた。

そして、4月16日正午頃、両軍の戦闘が開始された。新政府軍は主に笠間藩兵で、武器は銃ではなく手槍だったため、最新兵器を持つ旧幕府草風隊に圧倒され、多くの死者を出した。勝利した旧幕府草風隊は栃木方面に進んだ。

光照寺」の墓所には戊辰戦争で戦死した新政府軍笠間藩士の墓があります。

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旧幕陸軍の猛攻「第二次小山戦争」

4月17日、大鳥圭介が率いる旧幕陸軍中・後軍は小山を目指していました。前日に大敗を期した新政府軍は、彦根藩などの援軍を伴い先手を打って兵を宿場の各所に配備し、遊撃態勢をとった。

戦闘は、午前10時に開始。一時、新政府軍の銃攻撃に押されたものの、旧幕陸軍は応援態勢を継続したため、次第に新政府軍は前後を包囲される形となり、わずか1名を除き、隊長以下総員が戦死したと伝えられています。第二次小山戦争は午後2時に終結

日光街道の近くにある「常光寺」には戊辰戦争「小山の戦い」で被弾した痕跡を残す青銅阿弥陀如来像が所蔵されています。 

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旧幕陸軍の連勝「第三次小山戦争」

激戦を終え、旧幕陸軍は村民が炊き出した赤飯で戦勝を祝い、大鳥圭介は酒肴を振る舞った。祝い酒で酩酊する兵士も少なくなく、新政府軍の逆襲を恐れた大鳥圭介は小山に布陣することなく、午後5時に出立することにした。

その直後に、新政府軍が再度小山に襲撃をかけてきた。前日敗退した笠間藩兵と祖式金八郎の一隊である。戦闘は、双方が銃で応戦する銃撃戦となった。銃撃戦で攻勢に立った旧幕陸軍は勢力を分散させ、新政府軍を追討し、戦闘は短時間で終結した。二日間にわたる小山戦争は旧幕陸軍の勝利で終わりました。

日光街道に参道が面している「興法寺」は、嘉祥2年(849)創建の古刹で、元は小山城内にあり、小山氏代々の祈願寺でした。小山戦争では、ここも戦場となりました。

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 山門の先には見事な庭園と本堂があります。

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 境内にある「地蔵尊」には、戊辰戦争「小山の戦い」の被弾痕があります。

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地蔵尊の左側面のちょうど腰の部分に被弾して痕が見えます。

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 新田宿 

小山宿を後にしばらく歩き、羽川小学校を越えた所に、四脚門の本陣門を残した「青木本陣跡」があります。

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 日光街道の沿道に「吉田神社跡碑」があります。その路地に入った先に「羽川薬師堂」があります。

薬師堂には、「薬師瑠璃光如来像」が安置されています。境内の履屋には文政13年(1830)建立の十九夜塔と、安政4年(1857)建立の雨引観音が安置されています。

十九夜塔は、旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された塔のことです。月待行事とは、特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。十九夜講のほとんどは女人講、念仏講で、子安講といい、安産を祈願することもあるそうです。

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 小金井宿

小金井宿に入りました。JR東北本線小金井駅の近くに「小金井の一里塚」があります。日光街道をこれまで歩いた中で唯一両塚を残している貴重な史跡です。国の指定史跡となっています。

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 往時の日光街道の道幅を知る上でも重要な一里塚ですね。

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 真言宗の古刹「慈眼寺」です。

建久7年(1196)、新田一族の祈願寺として創建された寺院です。当時、境内には、御成御殿(御座所)が設置され日光社参りに将軍はここで昼食を摂っていました。

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大越本陣跡の前には、幕末に建てられた店蔵がいくつか並んでいます。いずれも安全対策上だと思いますが、ネットが設置されていました。

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 日光街道は、途中で国道4号線から分かれ笹原旧道に入ります。風景から往時の面影が感じられます。写真は、本陣大越家の蔵です。

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 栃木に入ってから麦畑をよく見るようになりました。もうすぐ収穫の時期なのだそうですが、栃木県の麦の生産量は全国で4番目で、二条大麦は全国で1位なのです。

その理由は、関東ローム層を黒ボク土が覆い、水はけもよく、また麦は成育中に根を深く張ることができることや、収穫期の6月は梅雨にかかり、本来、麦の収穫に雨は大敵なのですが、比較的県内では長雨が続かないという環境があっているのですね。

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 再び国道4号線に戻ります。しばらく歩き、国道352号線の交差点にかかる前に、青いトタン屋根に覆われた石仏石塔群が見えてきます。

宝永7年(1710)と享保3年(1718)造立の地蔵菩薩立像や延享4年(1747)建立の十九夜塔が旧道側を向いて祀られています。

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石橋宿

 石橋宿に入りました。日光街道に面して鳥居があります。参道脇には、弘化4年(1847)建立の二十三夜塔などがあります。

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 馬頭観音が祀られています。

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 雀宮宿

宇都宮市に入るなり、餃子の街らしい工場を発見。工場でも小売されていました。f:id:mondo7:20180522224846j:plain

 雀宮駅に到着。駅の外観が新しくオシャレな感じです。本日の歩き旅はここまでです。今回は、朝9時から夕方5時半まで歩きました。距離にして33キロ。お疲れ様でした。

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日光街道を歩く5-①間々田宿から小山宿

間々田宿

2018年5月21日、朝8時30分にJR間々田駅を降り、駅近にあるコンビニのイートインで100円ホットコーヒーと菓子パンをかじりながら、今日のウォーキングの作戦をあらためて練ることに。

まずは、「ちゃんと歩ける日光街道」(山と溪谷社)を開き、各宿場の見所を押さえ、ざっと歩行距離と到達時間を測る。およその時間は、無理のない時速4キロで計算しています。「今日の見所は、小山評定と戊辰の爪跡かな。次回の日光までの行程を考えると、何としても今日中に雀宮宿まで行きたい」と思いながら、旅支度を整えます。

小山市車屋美術館

月曜日ということもあって、最初の訪問地「小山市車屋美術館」は休館でした。

小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代にかけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。

 

 

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 休館ということなので、失礼して門扉の上から撮ることに。

美術館では、古美術から現代美術まで幅広く小山市ゆかりの美術を紹介しているそうです。観覧料大人100円、月曜日と第4金曜日は休館です。

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 間々田八幡宮

国道4号線をしばらく歩くと、沿道に「間々田八幡宮」の鳥居が建っています。

「間々田八幡宮まで500m」と表示。往復1キロということなるので少し考える。解説には、「嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なった」と書かれている。行くしかないでしょう!

曲がりくねった小道をしばらく歩くと、一帯とは隔絶された緑の濃い鎮守の森「間々田八幡宮」が現れます。

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 間々田八幡宮の創建は古く、今から千三百年前の天平年間に勧請されています。文治5年(1189)には、陸奥泰衡の乱に征伐の軍を率いた源頼朝が戦勝を祈願して松樹を植えたと伝えられています。

頼朝お手植えの松は四代目となって、ひょうたん池の縁にその姿を見ることができます。春にはひょうたん池の桜はライトアップされるようです。

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間々田駅前のロータリーで見かけた像「間々田のジャガマイタ」は、この神社に起源がありました。

約400年前から伝わる奇祭「 ジャガマイタ」は、田植えの季節を前に、五穀豊穣と疫病退散を祈願するお祭りとして伝承されています。

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 嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なったされる拝殿には見事な彫刻を見ることができます。

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 浅間神社の参道脇に「千駄塚古墳道標」があります。

履屋内には青面金剛庚申塔と天保15年(1844)建立の六臂馬頭観音像が安置されています。

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「門外不出」の酒蔵「西堀酒造」

 間々田宿に酒蔵がありました。西堀酒造です。創業明治5年(1872)銘酒「若盛」「門外不出」「奥座敷」の蔵元です。

酒蔵の建物は国の登録有形文化財に指定されています。

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 沿道に安房神社の鳥居があります。天慶2年(939)藤原秀郷平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神としています。

小山氏や古河公方の信仰も篤かったそうです。「モミの群落」は市の天然記念物に指定されています。

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 国道4号線を離れて間も無く、立派な長屋門が見えてきます。

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小山宿

 国道50号線の高架を潜りしばらく行くと、天満宮があります。石鳥居は享和3年(1803)の建立です。この辺りが小山宿の江戸南口で、土塁や矢来柵がありました。

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小野塚イツ子記念館

 小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」の商標でしょうゆを醸造していました。2003年に死去した故小野塚イツ子さんの遺言で土地・建物等を小山市に寄贈されています。れんが煙突、土蔵、旧しょうゆ工場は歴史遺産として保存されています。

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持宝寺の梵鐘

 持宝寺は、八代将軍吉宗の日光社参の際に休憩所になっていました。

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 境内にある梵鐘は寛政4年(1792)の鋳造で、市内では戦前に造られた梵鐘はここにしかありません。他は、第二次大戦の時に金属供出のため失われています。

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須賀神社

 須賀神社に来ました。「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶3年(940)京都八坂神社を勧請し小山城の鎮守としています。

石田三成との決戦を決意した家康は、須賀神社に戦勝を祈願したと伝えられています。

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小山評定之碑

関ヶ原の戦いのドラマで必ず登場する舞台が小山。 鳥居の横に「小山評定之碑」があります。

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 参道の横にある石鳥居は承応2年(1653)に建立されています。

県内では日光東照宮にある四基の鳥居に次ぐ歴史があり、小山市指定文化財となっています。

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史跡小山評定跡と小山御殿跡

小山市役所庁舎の前に「史跡小山評定跡」があります。

ご存知の通り、小山評定は、1600(慶長5)年7月25日、会津の上杉討伐のために小山に来た徳川家康が、石田三成挙兵の報を受け、諸武将を集めて今後の方針を諮った軍議のことです。

この軍議で各武将が家康に従うことを誓約し、関ケ原の合戦に臨むことを決めたとされています。 

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小山評定が行われた縁起のよい場所として、徳川将軍家の日光社参の際の宿として「小山御殿」が置かれた場所でもあります。

見るからに老朽化している小山市役所庁舎の耐震化は大丈夫かなと思ってしまいました。庁舎の垂れ幕には、様々な大会に挑む小山市の代表スポーツ選手の名前が掲げられています。

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 小山市役所の隣に小山御殿跡があります。

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小山城(祇園城)址

 小山御殿の先に「小山城址」があります。小山城は、藤原秀郷の築城に始まり、小山氏の居城になった場所です。別名「祇園城」と呼ばれています。

徳川の時代になると譜代の本多正純が城主となり城下の整備をしましたが、元和5年(1619)に宇都宮城へ移封となり、小山城は廃城となっています。

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現在、小山城趾は城山公園として利用されています。 

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 小高い小山城址から望む思川。

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