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戊辰戦争から150年の時を経て
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1 日光街道ウォーク
日光街道は五街道の一つ。江戸から千住、草加、古河、宇都宮を経て日光までの21次、約150㎞を結ぶ街道です。
日光街道は、日光東照宮への街道として歴代将軍の社参、諸大名の参詣、そして庶民の物見遊山で賑わい、発展しました。一方、幕末には旧幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽・伏見の戦いに続き、小山の戦い、宇都宮城の戦いなど一連の戊辰戦争の舞台ともなった街道でもあります。
私は、常々、「自分らしいの旅」にこだわって歩き旅を続けています。自分の興味や関心に引きつけて歩いていると、不思議なことに日常的な風景も変わって見えてきます。ですから、同じ歩く旅をするにしても、毎回「テーマ」を決めて旅の計画をしているのです。
今年(2018)は、明治維新150年、会津をはじめ東北諸藩の側から言えば戊辰戦争150年の節目の年に当たります。ということで、このサイトでは戊辰戦争にまつわる史跡に注目しながら日光街道の魅力を綴っています。また、上野戦争、会津戦争も戊辰戦争の旅の記録として掲載しています。
(1)日光街道の宿場
(2)日光街道ウォークの行程
回 | 日程 | 宿 場 | 距離 | ||
1 | 4.1 | 日本橋〜千住 | 8.8km | ||
千住〜草加 | 9.7km | ||||
2 | 4.21 | 草加〜越ヶ谷 | 9.0km | ||
越ヶ谷〜粕壁 | 10.0km | ||||
3 | 5.2 | 粕壁〜杉戸 | 6.6km | ||
杉戸〜幸手 | 5.8km | ||||
幸手〜栗橋 | 8.3km | ||||
4 | 5.19 | 栗橋・中田・古河 | 7.4km | ||
古河・野木・間々田 | 9.4km | ||||
5 | 5.26 | 間々田〜小山 | 7.4km | ||
小山・新田・小金井・石橋・雀宮 | 22.1km | ||||
6 | 10.22 | 雀宮〜宇都宮 | 7.9km | ||
宇都宮〜徳次郎 | 10.5km | ||||
徳次郎〜大沢 | 9.6km | ||||
7 | 10.23 | 大沢〜今市 | 7.4km | ||
今市〜鉢石 | 8.5km | ||||
総距離 | 147.7km |
(3)「日光街道ウォーク」の旅日記
2 戊辰戦争の旅
(1)会津戦争「白河・会津のみち」ウォーク
今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。
今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎の街道をゆく33「白河・会津のみち」を元に歩いてみました。
(2)「上野戦争」を歩く
現在でも、谷中、上野公園には、「上野戦争」の爪痕が残されています。今回は、吉村昭の最後の歴史小説「彰義隊」をもとに、東叡山寛永寺山主輪王寺宮や 徳川慶喜にスポットを当てながら、戊辰戦争「上野の戦い」ゆかりの地を歩いてみました。
(3)「日光街道ウォーク」・「戊辰戦争の旅」で参考にした図書
🔳戊辰戦争全史(戊光祥出版)
🔳戦況図解戊辰戦争(サンケイ新書)
日光街道を歩く 7 宇都宮宿・徳次郎宿・大沢宿・今市宿・鉢石宿
宇都宮宿 桂林寺
宇都宮駅前の大通り(奥州道中)から旧日光街道に入ります。郵便局が目印です。しばらく歩くと右手に桂林寺が見えてきます。
桂林寺は、1396年(応永3年)に宇都宮家第12代当主宇都宮満綱によって建立されました。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)の際、慶応4年4月19日に旧幕府軍の会津藩が来襲し、当寺に放火して全てを焼き払い、同年4月23日には新政府軍の長州藩兵と大垣藩兵が当寺付近に山砲を並べて旧幕府軍を砲撃したといわれています。
墓所には、蒲生君平や戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓があります。
桜並木と上戸祭の一里塚
松原交差点で国道119号線(日光街道線)と合流します。宇都宮環状線を横断した辺りから杉ではなく桜並木が始まります。桜並木を1Kmほど歩くと上戸祭の一里塚があります。珍しいことに、両塚とも並木の外側に原型をとどめています。
後ろに見える建物は、文星芸術大学の校舎です。
第六接合井
並木の外側にこんもりとした塚の上にある第六接合井は、大正4年(1915)に建設された水道施設で、浄水の送水管にかかる水圧を調整する役割があるそうです。
レンガ造の上家は国の登録有形文化財に指定されているんです。
徳次郎宿
徳次郎(とくじら)宿は、下・中・上の3宿で一宿となっています。宿内の家数は168軒、うち本陣は2、脇本陣は3、旅籠は72軒でした。この辺りから、緩やかながら勾配を感じます。
智賀都神社
徳次郎六ヶ郷の鎮守。参道口に見える2本の太いケヤキは「長寿の夫婦ケヤキ」と言われていて、推定樹齢700年。県の天然記念物に指定されています。
少しづつ日陰が大きくなってきました。先を急がねば。智賀都神社ホームページ
この辺りからでしょうか、国道119号線(日光街道線)沿いに杉並木が続くようになってきました。
徳次郎の辺りは杉並木の外側に歩道があるので安全なのですが、その先は、途中で歩道が途切れる箇所も。意外に国道を走るトラックが多いので危険極まりない感じです。
時刻は午後3時30分。この場所から大沢宿にある宿泊場所まであと10㎞。かかる時間はおよそ2時間なので、到着は5時30分・・・。
もちろん電灯はほとんどないので・・・案の定、暗闇の歩き旅となりました。
ようやく午後5時40分頃に「民宿 しんこう苑(日光杉並木ユースホステル)」に到着です。宿泊費は素泊まりで4,500円(ユースホステル会員は3,900円)。
大沢の宿場は、鉄道駅から結構遠い場所なので、日光街道を歩いている方には強い味方です。ぜひ、チェックしてみて下さい。写真は翌日撮った朝靄の民宿です。
民宿を朝7時に発ちました。日光街道に戻るのに2㎞ほど歩きます。気温が低いためでしょうか、周りの畑にも朝靄がかかっています。
大沢宿
元和3年(1617)徳川家康の日光東照宮遷座に伴い宿場となりました。大沢宿の宿内家数は43軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒でした。
日光杉並木街道
大沢宿から国道119号線に並行して本格的な杉並木の街道が続きます。
しかし、この辺りは観光地ではないので、折角の杉並木の景観なのですが、枯れ木などが残されたままの状態です。おそらく台風の影響かと思います。
大正4年(1915)建立の馬頭観世音。
森友の交差点から1.5㎞ほど離れた杉並木に「桜杉」があります。根元の上の割れ目から山桜が寄生し成長したものです。
七本桜の一里塚
両塚を残している珍しい一里塚です。北塚の大杉の根元に広い空洞があるところから「並木ホテル」と呼ばれています。確かに大人3人位は入れる広さがあります。塚は特別史跡、杉は特別天然記念物です。
今市宿
今市宿は日光例幣使街道(壬生道)、会津西街道の追分を控え、大いに賑わいがあった場所です。宿内家数は236軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒ありました。慶応4年の戊辰戦争の兵火に見舞われ、宿並の大半は灰燼となりました。
追分地蔵尊
この地蔵尊は、近くを流れる大谷川の洪水で流され河原に埋もれていたそうです。石工が単なる大石だと思い、ノミを打ったところ真っ赤な血が流れたといわれています。地蔵尊の背中にはこのノミ跡があるそうです。
例幣使杉並木街道
追分地蔵の反対側には例幣使杉並木街道があります。毎年、徳川家康の命日に朝廷から派遣される例幣使は「金の御幣」を東照宮に奉献していました。一行は、中山道倉賀野宿から日光例幣使街道に入り、今市で日光街道に合流しています。
銘酒蔵元の渡邊佐平商店
天保13年(1842)創業の銘酒「日光誉」の蔵元です。仕込みには日光山麓の名水を使用しています。店前には湧き出ている名水を自由に汲むことができるようになっていて、地元の人も愛飲しているようです。私も一口いただきました。
いつものように、銘酒「日光誉」をお土産にしました。
日野為商店
江戸時代から、この今市の日光街道沿いで「叶一」といブランドで味噌・醤油を販売している日野為商店が、2018年7月1日に、創業150周年を機に、気軽に休める街の茶屋「お休み処叶」を併設して、リニューアルオープンしました。
創業1868年(慶応4年)江戸末期の建物をそのままに、店内には、カフェを併設していて、各時代の貴重な生活用品や蔵出しの資料をギャラリーとして展示もしています。
朝鮮通信使今市客館跡
東武日光線上今市駅の前に杉並木公園があります。日光街道の杉並木と並行して広がる公園内に朝鮮通信使今市客館跡があります。
朝鮮通信使は江戸時代に12回来日し、そのうち3回この場所に宿泊して東照宮に参拝しています。この場所はあまり知られていないようですね。
公園内には庭園もあり、郷土の風景も感じられます。広葉樹の紅葉がとても綺麗です。秋の深まりを感じました。
杉並木は大沢宿から17㎞ほど断続していますが、この辺りが一番原風景の雰囲気を漂わせているように感じました。
砲弾撃(打)込杉
この辺りも戊辰戦争の激戦地でした。杉の幹に新政府軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡があります。また、杉並木の際には、戊辰戦争の戦死者のお墓がいくつもありました。
明治天皇御休憩所
明治9年(1877)、東北巡幸の帰途の小休所となりました。
日光杉並木にあった石仏石塔群。馬力神、馬頭観音、勝善神等が祀られています。
鉢石宿
鉢石宿は、日光道中最後の宿場。元和3年(1617)徳川家康を日光東照宮に祭り、日光参詣が盛んになると門前町として発展し、栄えました。宿内家数は227軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠19軒でした。
JR日光駅
大正元年(1912)8月25日、現在の2代目駅舎が落成しました。ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式の木造洋風建築2階建てで、長らく設計者は不明でしたが、2012年に地元の郷土史家の研究で、当時の鉄道院技手の明石虎雄が設計したものにほぼ間違いないと判明したそうです。
日光は、関東地方の小学校の修学旅行先として歴史があるところなんです。最近では、世界遺産なので外国人観光客の乗降客で溢れていますよ。
戊辰戦役の芸州藩士墓がある龍蔵寺
本堂の横に戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓がありました。
日光市庁舎本館
木造3階建、鉄板葺、大正初期建築。日光街道沿いに「大名ホテル」として建築され、昭和29年から市庁舎として使用。
大ぶりな破風を載せた左右翼部を正面に張り出し、中央を望楼風とした城郭風の造り。避暑地日光として知られた当時をしのばせる建物です。
板垣退助銅像
神橋の手前に立つ板垣退助銅像。板垣退助さんもあまり観光客には知られていないようです。
新政府軍の総督府参謀の板垣退助は日光廟に立て籠もった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、日光山内を兵火から守ったことから銅像が建てられているのです。
日光街道のゴール「神橋」
「神橋」を日光街道のゴールとしています。ようやく完歩です!!
「神橋」は、寛永13年(1636)に架橋されました。将軍社参、勅使、例幣使などの参詣のみに使用されました。橋手前に「下乗石」があり、将軍もここで駕籠から降りて徒歩で日光山内に入ったそうです。
<特別編 日光東照宮>
日光東照宮に来ました。傘を差すまでもありませんが、小雨が降ってきました。
この辺りの標高は、634メートルで、東京スカイツリーと同じ高さです。
東照宮に入るための入場券売場には、外国人観光客による長蛇の列ができていたので、今回はここまでにしました。次回にまた参詣したいと思います。
日光街道ウォークポイント
メモ 2018.10.23 徒歩27㎞ 江戸日本橋から日光までの実距離 208.1km (地図上の距離 144.7㎞)
完(HOMEへ)
日光街道を歩く6 雀宮宿から宇都宮宿
雀宮宿
約5ヶ月ぶりに日光街道ウォークを再開しました。季節も春から秋に。今回は、日光の手前の大沢宿で一泊してゴールを目指します。
偶然ですが、150年前の今日(2018年10月23日)は、明治時代が始まった日なんです。さて、どんな旅になるのか楽しみ!
前回の終着地点「JR雀宮駅」のホームに降り立つと、駅のシンボル「雀」のブロンズ像が目に入ります。
"雀宮" 何とも可愛らしい地(駅)名ですね。その由来を調べてみると、
「百人一首の歌人藤原実方が陸奥守として任地に赴任すると、妻の綾女が夫の元に向かいましたが、この地で病死してしまいます。夫も任地で死亡しましたが、霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで息絶えてしまいます。里人が憐れみ塚上に綾女神社を祀り供養したとされています。
平成23年に改築された駅舎には、地元の「大谷石」がふんだんに使われています。
「雀宮宿」は、日光道中の整備に伴い天保14年(1843)に開かれました。宿内家数は72軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠38軒で人口は268人。
今回の旅の目的の一つに「日光街道界隈に残る戊辰戦争の足跡を訪ねる」があります。そこで、雀宮駅にあるレンタサイクルを利用して周辺を巡ることに。
宇都宮市は、雀宮駅と宇都宮駅に放置自転車を活用して一日100円でレンタサイクル(ママチャリ)を行なっているんです。素晴らしい!
戊辰戦争の史跡が残る場所は、雀宮駅から約5km離れた「安塚」です。宇都宮市のレンタサイクルのホームページはこちら。
安塚の戦い
ここで、安塚の戦いに至る幕府軍と新政府軍の激戦の経過を辿ります。
大鳥圭介ら旧幕府軍と新政府軍が小山で対峙する中、土方歳三ら千余名は慶応4年4月19日早朝、蓼沼村を後にして、南東の方角から宇都宮城を攻撃します。
すでに、東北の入口となる宇都宮城には新政府軍が入り、防備を固めていましたが、宇都宮城の南東部は田川が流れているだけで土塁も低く、防備が薄かったため、土方歳三ら旧幕府軍に撃ち破られます。その後、大鳥圭介らも20日に宇都宮城に入ります。
小山の戦いでの敗報を受けた新政府軍の東山道総督府は3次にわたり救援軍を派兵します。宇都宮城の陥落を知った救援軍は一旦、壬生城へ入ります。
新政府軍の北上の報を受けた旧幕府軍の大鳥圭介らは、壬生城に向けて軍を派遣します。
一方、新政府軍も壬生城から宇都宮城の奪還に向け出陣します。そして4月22日未明、両軍は安塚で激突ということになったわけです。
下の写真は安塚にある「戊辰戦役の墓」です。
激しい風雨の中、姿川を挟んで壮絶な銃撃戦が展開されます。
一進一退を繰り返しますが、大鳥圭介ら旧幕府軍は追い詰められ、宇都宮へと撤退します。この戦いで旧幕府軍で元新撰組の永倉新八が腕を負傷しています。
結局、安塚の戦いは、新政府軍の勝利に終わりました。この地には幕府軍34名の戦死者の鎮魂碑が地元住民によって建てられています。
この先に攻防戦が繰り広げられた姿川があります。姿川をひと目見て、再び雀宮駅までママチャリで戻ることにしました。
想像していた以上にアップダウンがあり、ママチャリではなく電動自転車を借りとけばと後悔しながら、重いペダルを踏んでいました。
大谷石造りの長屋門
安塚駅近くで見かけた大谷石の立派な長屋門。思わずシャッターをきりました。
雀宮神社
雀宮駅でレンタサイクルのママチャリを返却し、日光街道を宇都宮宿に向けて歩き始めます。
雀宮駅から5分ほど歩いたところに「雀宮神社」があります。
長徳3年(997)八幡太郎義家の創建、雀宮村の鎮守。正徳3年(1713)東山天皇より金文字で「雀宮」と書かれた「勅額」が下賜されたため、日光社参の将軍や諸大名は参詣を常とした、と言われています。
新町のケヤキ
西原の追分で国道4号線から国道119号線に進みます。
途中、JR日光線、東武宇都宮線のガードをくぐり、不動前通りをしばらく進んだところに「新町のケヤキ」があります。
樹齢800年で樹高43m、目通し周囲7.9mあり、江戸から宇都宮城下への入口に当たるため人々の目印とされてきましたが、平成25年の台風18号で半倒壊し、その後伐採されてしまいました。
戊辰戦争の激戦地 宇都宮宿
宇都宮宿は、二荒山神社の門前町として栄え、地名は、下野国「一の宮」や、奥州攻めの源氏勢が戦勝祈願をした「討つの宮」を地名の由来としているなど諸説あります。
その後、宇都宮藩は城下町として発展し、主要街道の要衝、そして鬼怒川の舟運で江戸と結ばれ、日光街道一の賑わいある宿場となったようです。
宇都宮宿では、特に戊辰戦争「宇都宮城の戦い」の足跡を散策しながら北上を目指します。
宇都宮藩士が眠る西原山台陽寺
新町のケヤキのそばに「西原山台陽寺」があります。慶長10年(1605)の創建。墓所には戊辰戦役で戦死した宇都宮藩士の墓があります。
新政府軍の墓碑がある松嶺山報恩寺
茅葺きの山門は寛永16年(1639)創建時のもの。境内には戊辰戦役で戦死した薩摩、長州、大垣藩士の「戦死烈士之墓」があります。
山門をくぐると右側に「戊辰 薩藩戦死者墓」があります。
墓台には3つのプレートが埋め込まれています。プレートには、戦死者の部隊名、氏名、年齢が書かれていて、中央のプレートには18歳という若さで戦死した方のお名前も。
安塚の戦いで勝利した新政府軍は、宇都宮城奪還に向け、城下南西の六道の辻から宇都宮城に攻め込んで行きました。
六道の辻の戊辰役戦死墓
各方面からの旧街道が交差する六道の辻一帯は、宇都宮城を奪還しようとした新政府軍と、迎へ撃つ旧幕府軍が激戦を繰り広げた場所です。
旧幕府軍関係者の遺体は、付近の住民らによって六道辻付近に合葬されました。
その後、明治7年6月に、旧宇都宮藩士の戸田三男、前橋徳蔵ら14名によって「戊辰役戦死墓」と刻んだ墓碑がこの六道交差点脇に建立されました。
新政府軍に抵抗して散った人々は当初埋葬すら許されず、許された後もその墓石に名を刻むことは禁じられ、僅かに許されたのは「戦死墓」の三文字だけでした。
六道交差点に残るこの墓碑を、地元の人々は「賊神さま」と呼んでいたと言われています。
旧幕府軍桑名藩士の墓がある光琳寺
光琳寺本堂で六道付近で採れたという美味しい柿をご馳走になりました。光琳寺さんは、まちのプラットホームを目指してユニークな活動をされています。ホームページをご覧ください。光琳寺ホームページ
宇都宮城の戦いで戦死した旧幕府軍の墓が六道の辻にある「戊辰役戦死墓」以外にあるとは思っていなかったので驚きました。
同じく、光琳寺の境内に官軍(新政府軍)の因幡藩士、山口藩士の墓碑があります。
宇都宮城の攻防戦
光琳寺を後に、もみじ通りを東に進みます。日光街道を抜け、宇都宮市役所を越えたところに宇都宮城址があります。
ここで、改めて宇都宮城での激戦の経過を辿ります。
すでに新政府軍により守りが固められていた宇都宮城でしたが、旧幕府軍先鋒隊の秋月登之助や土方歳三らによって、攻め込まれ、宇都宮城は落城してしまいます。この時、敗走する宇都宮藩士によって城主居城である二の丸に火が放たれ、宇都宮城は焼け落ちてしまいます。
旧幕府軍先鋒隊を指揮していた土方歳三の士気は凄まじく、戦場から逃走しようとした自軍の従兵をその場で斬っています。きっと士気をあげる為でしょう。この戦いで土方歳三は脚を負傷してしまいます。薩摩藩狙撃兵の銃弾によるものとみられています。
一旦、壬生城に敗走した新政府軍でしたが、東山道総督府からの救援軍の派遣で勢いを付け、安塚の戦いで大鳥圭介ら旧幕府軍を破り、さらに六道の辻で激戦を繰り返した新政府軍は、再び、宇都宮城を奪還するのです。
宇都宮を脱した大鳥圭介、土方歳三ら旧幕府軍は、日光街道を北上し、徳次郎村を経て、例幣使街道を通り、大沢に抜け、今市宿の本陣に入ります。
その後、大鳥圭介らは日光に進み、負傷している土方歳三らは会津を向け出立していきます。(土方歳三の会津での東山温泉療養の様子は、「会津戦争」で紹介しています)
復元された宇都宮城
慶応4年4月の戊辰戦争で城内の建築物は焼失してしまいましたが、平成19年3月に宇都宮城本丸の一部が外観復元されています。
復元された本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓は内部が公開されています。
10メートルに及ぶ土塁内部は鉄筋コンクリート造りになっていて、宇都宮城に関する資料の展示の他、驚いたことに災害用備蓄倉庫としても役立てられています。
土塁に囲まれたこの広大な芝生は、当時の本丸で、将軍が日光社参の際に使用された宿泊施設となっていたところです。
この写真は、土塁上に建つ清明台櫓から撮ったものです。この辺りが二の丸に当たるところで、城主の居館があったようです。
先日、「ブラタモリ・宇都宮編」でも紹介されていたのでご覧になった方も多いかと。
本丸御殿が置かれた場所には清明館という建物があり、歴史展示室や休憩室などが入っています。
大谷石造りの松が峰教会
宇都宮名物の大谷石は、昔から蔵や家屋、教会に至るまで、地元の人に広く使われています。年月を経るごとに、風合いが増し、街の景観にひと役買っているようです。その代表的な建物がこの松が峰教会です。
昭和7年に建てられたロマネスク様式の双塔の教会は、スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計で、国の登録文化財になっています。外壁、祭壇、柱に至るまで大谷石で造られていて、まさに宇都宮のシンボルです。松が峰教会のホームページ
宇都宮二荒山神社
松が峰教会から大通り方向に進むと、下野を代表する神社「二荒山神社」があります。かつて、「下野一ノ宮」と呼ばれたのが「宇都宮」の地名の由来になったとも。
起源は約1600年前といわれ、社宝の鉄の狛犬と兜は、国の重要文化財となっています。現在の社殿は明治10年に再建されたものだそうです。
ちょうど、七五三詣りのご家族も参拝されていました。
ブラタモリ風に言うと、この場所が北関東のヘリに当たる所で、ここから先が関東平野となるのでしょうか・・・。
戦いの前日の慶応4年4月18日、蓼沼村(現・上三川町東蓼沼)の満福寺に宿陣していた土方歳三、桑名藩兵らは宇都宮城に向かいます。
先鋒隊を指揮していた土方歳三らは梁瀬橋を渡り、宇都宮城に攻め込みます。秋月が率いる中軍は梁瀬橋を渡らず、大手門を攻略します。
二荒山神社には城下町を戦場とされた町人たちが殺到していました。宇都宮城の惨状を二荒山神社から眺めていたことでしょう。
ランチはもちろん餃子!
最近では、宇都宮の代名詞と言えば「餃子の街」ですね。松が峰教会の近くにある「オリオン餃子本店」でランチを頂きました。
日光街道ウォークスポット
メモ 2018.10.22 自転車10㎞ 徒歩42㎞ 合計52㎞
徳次郎宿へ
戊辰150周年「上野戦争を歩く」
上野戦争の爪痕(彰義隊 VS 新政府軍)
鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸に敗走し、上野寛永寺に謹慎してしまいます。江戸城は無血開城されたものの、守護している家臣や浪士たちは、慶喜の処遇をめぐり彰義隊を結成し、上野寛永寺周辺で新政府軍と戦うこととなります。この戦闘を上野戦争と呼んでいます。
この上野戦争で東叡山寛永寺の伽藍のほとんどは焼き尽くされ、多くの彰義隊士の無残な遺体が放置されたと言われています。
現在でも、谷中、上野公園ではその爪痕が残されています。今回は、吉村昭の最後の歴史小説「彰義隊」をもとに、東叡山寛永寺山主輪王寺宮や 徳川慶喜にスポットを当てながら、ゆかりの地を歩いてみることにしました。
新政府軍の弾痕が残る「経王寺」
日暮里駅南改札から石階段で高台に上がります。高台は、一面広大な谷中霊園です。道路に面した所に「経王寺」があります。
「経王寺」は、慶応4年(1868)の上野戦争で敗走した彰義隊をかくまったため、新政府軍の攻撃を受けることとなり、多くの銃弾が打ち込まれました。今も山門に銃痕を見ることができます。
歴史が香る谷中の小径
境内に面した道を真っ直ぐ進むと、谷中銀座につながっています。途中に「夕やけだんだん」があります。平日のしかも昼前ですが、結構賑やかです。最近では外国人観光客の姿が多いことに気がつきます。
ここから、谷中霊園、上野公園に目指して小径を歩きます。この辺りは、昔ながらの風情が残っているので、歩くのも苦になりません。
この写真は、「初音小路」という小さな飲み屋街です。昭和レトロの佇まいが何とも言えませんね。
こちらは大正の頃の建物でしょうか、谷中の風情が感じられる建物です。後世にも残しておきたいものです。
脇道に入ると築地塀(観音寺)も見ることができ、小江戸の情緒が感じられます。この築地塀には、今も上野戦争の弾痕が残っていると言われています。国の登録有形文化財です。
この道沿いには、朝倉彫塑館や幸田露伴旧宅跡、北原白秋旧宅などがあります。また、おしゃれな小物を置いているお店もあって見所満載です。
谷中霊園は、厳格な柵がないので、街なかにごく自然に溶け込んでいるような印象を与えています。
訪れるのは、徳川慶喜のお墓です。矢印で案内表示されているので、そのとおりに歩いていくと辿り着くことができます。
吉村昭の『彰義隊』は、第15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰るところから始まります。
江戸に戻った慶喜は、賊徒、朝敵として厳罰を恐れ、自ら寛永寺に謹慎します。その後、和宮や勝海舟などの働きかけがあって、江戸は無血開城され、慶喜は水戸家で謹慎することになります。その間、上野寛永寺山主の輪王寺宮は慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走していました。
その後、慶喜は、水戸から駿府(静岡)に移り謹慎します。謹慎が解かれた後も静岡に住み続け、明治30年になって、東京に転居します。そして大正2年、77歳で亡くなります。
慶喜は、徳川家の菩提寺ではなく、谷中霊園内に墓地を設けます。お墓は写真のように神式によるものです。
一方、皇族の身にも拘らず、朝敵となった上野寛永寺山主の輪王寺宮は、上野戦争で彰義隊が敗北したことにより、身の危険を感じ、身寄りを訪ね一時身を隠します。しかし、新政府軍の追っ手から逃れることが厳しいと思った輪王寺宮は、幕府艦船で奥州へと逃走の旅を始めるのです。果たしてその先で輪王寺宮に待ち受けているものは・・・。
谷中霊園の中に御隠殿坂(ごいんでんざか)という坂があります。これは、寛永寺から輪王寺宮の別邸に行くために設けられたもので、「鉄道線路を経て」と記されているとおり、現在も鉄道線路の高架橋に繋がっています。
寛永寺に向かう途中、行列ができているケーキ屋さんを発見。このケーキ屋さんは、「パティシエ イナムラショウゾウ」のお店でした。意外にも、並んでいるのは、高校生を含め、男性ばかりなのに驚きました。時代が変わりましたね。
谷中霊園に向き合うように寛永寺根本中堂(当時の根本中堂は上野公園の噴水広場の辺り)が建っています。
東叡山寛永寺は、天海大僧正が寛永2年(1625)に上野の山に造営したもので、比叡山が京都御所の鬼門であるように、江戸城の鬼門の守りを意図して造ったもので、輪王寺宮が山主を勤めてきたお寺です。鳥羽伏見の戦いに敗れ、逃げ帰った徳川慶喜はこのお寺の一室で謹慎をしていました。
東京国立博物館の隣に寛永寺内輪王寺宮墓地があります。輪王寺宮の墓地を見ることはできませんが、当時の寛永寺旧本坊表門を直に触れることができます。
上野戦争の際に撃たれた弾痕がいくつも残されています。中には、当時の弾丸が弾痕に残っているものまでもあります。
戊辰戦争の面影が残る上野公園
他にも、幕末の戦乱や寛永寺の面影を残す史跡が上野公園にあります。
上野公園噴水広場の横にあるプレートは、初代歌川広重による寛永寺全景を描いた浮世絵です。プレートの横には、寛永寺根本中堂跡の解説板があり、当時この場所に寛永寺根本中堂をはじめ、伽藍が建てられていたことがわかります。これらの塔頭は慶応4年の上野戦争で焼き払われています。
この建物は東京国立博物館です。上野戦争で焼き払われるまで、ここに東叡山寛永寺本坊がありました。
この山門は、1651年(慶安4年)に三代将軍徳川家光が造営した上野東照宮です。上野戦争で寛永寺の伽藍が焼失してしまいましたが、この上野東照宮には火の手が及びませんでした。
上野東照宮は近年、化粧替えしたので美しい姿が蘇っています。境内からは五重塔を見ることができます。
花園稲荷神社が鎮座しているこの地は、上野戦争で「黒門」と並び「穴稲荷門の戦い」といわれ、激戦地となった場所です。現在では、花園稲荷神社の鳥居が外国人観光客の格好の記念撮影スポットとなっています。
境内には、穴稲荷神社があります。その奥にある弥左衛門狐の社は、寛永寺建立の際に忍が岡の狐が住むところが無くなるのため、一洞を造り社を祀ったともの伝えられています。
明治6年に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、今は縁結びの神様、パワースポットとして人気を博しています。
花園稲荷神社の先には寛永8年(1631年)に建立された上野大仏様があります。この大仏様は、安政大地震や関東大地震の際に頭部が落下し、第二次大戦では胴体部分が軍需のため金属供出されてしまいます。
今では、「これ以上落ちない」ということから受験の神様として崇められています。隠れたパワースポットですね。
上野大仏前の植え込みに新潟県の草花「雪割草」が可憐に咲いていました。
京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂は、寛永8(1631)年に慈眼大師天海大僧正によって建立されました。上野寛永寺の建物の中で、上野戦争や関東大震災からも免れた貴重な建物です。
正面に立つ「月の松」は、平成24年に再建されたもの。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれています。拝殿に入ると、四方に錦絵が飾られていますが、その一つに上野戦争で使用されたアームストロング砲の砲弾が2つ置かれています。
清水観音堂に上がり、「月の松」から先を望むと不忍池の弁財天を見ることができます。
不忍池の弁財堂は、琵琶湖に浮かぶ小さな島「竹生島」のお堂を見立てて造営したものです。6月下旬から8月上旬には蓮の花が湖面いっぱいに咲き誇ります。
慶應4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮による新政府軍は上野を総攻撃します。いわゆる上野戦争です。
新政府軍が備えた最新の銃器の効果は大きく、彰義隊は夕刻にはほぼ全滅し、一部の者たちが根岸方面に敗走していきます。あらかじめ、大村増次郎が被害を大きくしないようにわざと敗走できるようにと根岸方面の一角に軍隊を配置しないでいたためです。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されていましたが、南千住の円通寺の住職らによってこの場所で荼毘に付されました。
彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、政府を憚って、墓標には「彰義隊」の文字はありません。旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が墓標に刻まれています。一部の遺骨は南千住の円通寺に埋葬されています。
彰義隊の墓の近くに、西郷隆盛像があります。明治31年(1898)に建設されています。高村光雲の作です。設置場所については、議論が重ねられたようですが、西郷隆盛ゆかりの地ということで、上野に落ち着いたようです。明治政府にとれば、旧幕府軍を制圧した記念の像と言えるのかもしれません。
上野大仏の近くには「小松宮彰仁親王銅像」があります。彰仁親王は、鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり戊辰戦争に従軍しています。この銅像は明治45年に建てられていますが、その理由として寛永寺の最後の門跡を継承した輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んでいると言われています。が、西郷隆盛像と同様に新政府の意図が感じられます。本来であれば、弟宮の輪王寺宮公現法親王こそこの地に相応しいと思うのですが、新政府としては、断じて許さなかったことでしょう。
上野公園の入口にあるこの壁泉は、かつてこの場所にあった「黒門」の姿を表現しています。この場所は、上野戦争で最も激しい戦闘が行われたところです。多くの銃弾を受けた黒門は今、荒川区の「円通寺」に残されています。
上野公園の玄関口では桜が満開です。この桜の木は、上野公園で最も早く咲く大寒桜です。ここから上野広小路を抜けて、湯島天神(神社)に向かいます。
かつての上野寛永寺の黒門の前には「三橋」という橋がありました。現在でいうと上野公園前の中央通りの辺りでしょうか。今、その場所には「あんみつみはし」という甘味屋さんがあります。元禄10年(1697)の創業で、店名のとおり「あんみつ」がとても美味しいですよ。
ということで、今日も「小豆あんみつ」をいただきました。
朝廷軍が駐屯した湯島天神
路地の先に湯島天神が見えます。路地を抜け、女坂の階段を上がります。この辺り一帯は江戸の頃は茶屋街があって随分と賑わいがあったそうです。写真の建物にも風情を感じます。
受験シーズンも終わり、学生の姿は見えませんが、ぎっしりと飾られた絵馬やおみくじに受験の神様の人気ぶりが現れています。この湯島天神に新政府軍が駐屯していました。
上野から都営浅草線に乗り、田原町駅で下車します。しばらく歩くと、彰義隊が結成された浅草東本願寺があります。残念ながら当時を偲ぶものはありません。
浅草東本願寺から合羽橋道具街方面に10分ほど歩いた所に「東光院」があります。このお寺は、上野の戦渦から抜け出た輪王寺宮がお付きの者と土砂降りの雨の中を必死で上野から逃れ、最初に身を寄せた場所です。この後、市ヶ谷の自証院に匿ってもらいます。
彰義隊士が眠る「円通寺」
南千住駅から徒歩10分程のところに円通寺があります。
円通寺は、彰義隊をはじめ旧幕臣の墓石などがあります。また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
上野戦争の発端は、江戸は無血開城となったものの、これを認めずに、気勢をあげる彰義隊は日に日に、勢力を拡大していきました。そしてついには上野戦争が勃発し、しかし新政府軍の圧倒的な戦力差に彰義隊は、わずか一日で敗れます。
斃れた隊士の遺体は、朝敵ということで、野ざらしとされ上野の山は、地獄の様相となったと言われています。
この様子に、さすがに見かねた「円通寺」の住職である仏麿和尚らが協力し、彼らの遺体の一部である266体の遺体を「円通寺」に埋葬したのです。このような縁から現在、荒川区南千住の「円通寺」には、彰義隊をはじめ、新政府軍に戦いを挑んでいった旧幕臣らの墓や碑が数多く建立されています。
上野戦争の激戦地、黒門口に建てられていた「黒門」。無数の銃弾痕が、生々しく激戦の様子を伝えています。
彰義隊の墓標は、榎本武揚によって建てられました。墓碑銘も榎本の筆によるものです。
新政府軍の追っ手が忍び寄る中、輪王寺宮は江戸から離れる決意をし、会津、米沢、仙台と諸国を落ちのび、数奇な人生を送ることになります。
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戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く③
会津戦争「白虎隊が自刃に到るまで」
二本松城落城と母成峠陥落
白河城の落城後、板垣退助らが率いる新政府軍は、北上し、二本松城に侵攻します。
慶応4年7月29日、二本松城は、新政府への徹底抗戦を誓いますが、城内にはわずかな守備兵がいるのみでした。急遽、少年と老人が駆り出され、二本松少年隊の悲劇が生まれます。
8月20日、新政府軍は二本松城を落城させると、北上せずに本命の会津征伐に向け、軍を発します。母成峠からの進軍は、会津藩にとっては想定外となるルートでした。
8月21日、わずか一日で母成峠の頂上で会津軍本営を落とした新政府軍は、会津領内へと侵入します。
母成峠陥落の報を聞いた松平容保は軍議を開くと、諸家老に新政府軍への遊撃を命じます。作戦は、猪苗代湖の戸ノ口原に進出し、日橋川に架かる十六橋を破壊して敵の進軍を遮断するというものでした。しかし、遊撃できる兵は、白虎隊などの少年兵や老兵などしか残されていませんでした。
猪苗代湖戸ノ口の湖面
新政府軍、十六橋を占拠
新政府軍の侵攻を食い止めるためにも十六橋の破壊は急務でした。しかし、十六橋は頑丈な石造橋で、破壊は遅々として進みません。そこに、新政府軍が十六橋に到着し、会津軍に一斉射撃を浴びせます。橋の破壊に夢中だった会津軍はこれに驚き、友軍陣地の戸ノ口原まで後退します。そして、8月22日、新政府軍は十六橋を占拠します。
現在の十六橋
猪苗代から流れ出る日橋川には、古くから十六橋とともに十六橋水門が架かっています。この水門により猪苗代湖の湖水が会津の農業用水として利用されてきました。現在は、猪苗代湖の洪水を防止する大事な役割を持っています。
戸ノ口原の戦い
危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛に滝沢村本陣に出馬します。そして、白虎隊に友軍陣地の戸ノ口原へ進軍するよう命じます。
8月23日早朝、戦闘地域となった戸ノ口原では総勢3千余名の新政府軍に対し、会津軍は3百数十名の兵力しかないため、瞬く間に総崩れとなってしまいます。
そして、戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走することになります。
激戦地となった戸ノ口原にある戊辰戦没者之墓
この地で多数の戦死者を出した会津軍は撤退を余儀なくされました。並んでいる暮群から激戦だったことがが伺えます。
白虎隊が眠る飯盛山
敵軍を避け、何とか飯盛山へとたどり着いた白虎隊の眼に映ったのは、炎に包まれ、黒煙が立ち込めた我が城の惨状でした。
飯盛山は、会津若松駅から2㎞ほどの所にあります。麓から山頂まで183段の石段があります。今回は酷暑のため、「スロープコンベア」という「動く坂道」を利用して上がりました。大人250円です。
白虎隊墓地
鶴ヶ城の惨状を眼にした白虎隊副隊長の篠田儀三郎は、「万一敵の捕虜となったら殿や祖先に対して申し訳が立たない。潔くここで自害することこそ、武士の本懐である」と主張。一同これに同意し、集団自決を遂げることになります。
自刃した遺体は、そのまま山中に放置されていましたが、戦後、これを哀れに思った村人が、近くにある妙国寺に運び埋葬しました。後に飯盛山に墓を移します。
この時、新政府軍軍監の三宮義胤は新政府の命に逆らい、人道的に埋葬を黙認しています。
「会津藩殉難烈婦碑」は戊辰戦争で自刃または戦死した会津藩婦女子230余命の霊を弔うため、昭和3年に建てられたものです。
白虎隊のうち、最年少の飯沼貞吉は、脇差で喉を貫いたものの死にきれず、蘇生したところを村人に助けられ、一命を取り止めています。白虎隊の墓地から少し離れた場所に飯沼貞吉の墓があります。
飯沼貞吉は、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、仙台市で78歳の生涯を終えています。
白虎隊自刃の地
戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊は、飯盛山へと逃走し、この地から鶴ヶ城が炎に包まれているところを眼にし、この場所で集団自決を遂げました。
白虎隊の石像が顔を向けている方向に鶴ヶ城があります。
この写真は、白虎隊が眼にしたであろう飯盛山眼下の景色です。もちろん、こんなに住宅が混み合っているはずはありませんが。
なかなか肉眼ではハッキリとは分かりませんでした。
そこで、前日、鶴ケ城の天守閣から見た「白い細い柱」を目当てに望遠で探したところ、発見できました、美しい赤い屋根瓦の鶴ケ城を。
会津さざえ堂
会津さざえ堂は、寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。
上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。
会津さざえ堂から石段を下ると、清らかな用水が勢いよく流れています。これは、激戦地となった猪苗代湖の戸ノ口にある十六橋水門から取水しているものです。
戸ノ口原の洞穴
山腹から湧き出すように用水を押し出している洞穴があります。
猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150メートルの洞穴を潜り、命からがら、飯盛山の中腹へとたどり着いています。
松平容保が出馬した史跡「旧滝沢本陣」
史跡「旧滝沢本陣」です。十六橋を突破され、会津に進攻してくることに危機感を持った松平容保は、白虎隊を護衛にこの滝沢本陣まで出馬してきました。
白虎隊は、この滝沢本陣から松平容保の命により激戦地となる戸ノ口原に向かうことになります。
滝沢本陣は、飯盛山から歩いて15分ほどの場所にあります。
「白河・会津のみち」ウォークポイント
戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く②
会津に入る
大内宿を後に、国道118号線で会津に入ります。国道と並行して「会津鉄道線」が敷かれています。途中、風情が残る芦ノ牧温泉を越え、国道は一気に下ります。市内に入り、しばらくすると会津鶴ヶ城が左手に見えてきます。
会津藩は、幕末に入り、数奇な運命を辿っていきました。
会津中将松平容保が、藩兵を率いて京に入ったのは、戊辰(明治維新)から6年前の文久2年(1862)12月24日。そして、新選組が、京都守護職としての容保の差配に入ったのは、容保が上洛して10ヶ月後のことだった。それも容保の側から進んでそうしたのではなく、幕府が、付属させたのである。
ただ、新選組の苛烈な白刃によって、都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、そのことが、長州人の恨みを買った。恨みは、会津藩に向けられ、やがて会津攻めになって晴らされる。(「街道をゆく」)
戊辰150周年を迎え、至る所で戊辰ののぼり旗を目にします。鶴ヶ城天守閣では幕末特集が行われています。
会津藩の歴史に触れる
ここで、少し会津藩史に触れてみます。
(会津藩史 その1)
元々、「黒川」という地名を「会津若松」という地名に変えた人物は蒲生氏郷(1556-95)です。蒲生氏は近江の名族でした。信長の三女冬姫の婿になった蒲生氏は秀吉からも優遇され、伊勢松坂12万石に封じ、商業都市へと発展させます。後に、秀吉は、蒲生氏を奥州会津、当時の黒川に転封させます。
奥州五十余郡の武の地で、よほどの器量の者を会津にすわらせてその鎮めにせねばならないということだったのだろう。
町割もし、商工業の基礎もつくった。かつて氏郷とともに伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人たちが、今度は会津までやってきて、城下に日野町(後に甲賀町)という商工業の町を形成した。氏郷は、城下の名も変えた。「若松」とした。(「街道をゆく」)
会津鶴ヶ城天守閣で行われていた全館幕末特集を見学させていただきました。
(会津藩史 その2)
藩祖は、保科正之(1611-72)である。この人の思想と人柄が、後々まで会津藩を性格づけた。
ともかくも会津藩は85%の中間層のおかげで密度高い藩風が確立したのである。さらには、教育水準を高めることにも役立ち、もう一つは結束力もつよくなった。
藩としての精度が高かったために、江戸時代、国事にこきつかわれた。
会津藩にとっての最大の難事は、幕末、幕府が、ほとんど無秩序になった京都の治安を回復するために、会津藩主松平容保(1835-93)を起用して"京都守護職"にしたことである。(「街道をゆく」)
写真は、天守閣の最上階(5階)にある展望台から眺めた景色です。
中央手前に見えるこんもりとした山が、白虎隊が自決を遂げた「飯盛山」です。目印は、「白くて細い柱(避雷針?)」です。そして、左奥にそびえているのが会津磐梯山。
右に目線を移します。中央手前に見えるこんもりとした山が「小田山」です。戦いの終盤、「小田山」を占領し、台場を築き、アームストロング砲や4ポンド山砲など20数門を据え、眼下の鶴ヶ城に向けて砲撃を開始した場所です。
手前の瓦に注目していただきますと、以前は、鶴ヶ城の屋根瓦は「黒瓦」だったのですが、7年ほど前に幕末当時の「赤瓦」に葺き替えられています。
桜「はるか」も成長してます
平成25年に女優の綾瀬はるかが新島八重役で主演を務めたNHK大河ドラマ「八重の桜」が放送されました。ご覧になった方も多かったのでは。 そのご縁で、綾瀬はるかさんが、鶴ヶ城公園の一角に桜の植樹をしています。その桜の名はズバリ「はるか」です。今ではこんなに成長しています。
綾瀬はるかさんが植樹祭の際にメッセージを送られていますが、そのメッセージが桜「はるか」の前に建てられています。
新撰組副長「土方歳三」が療養した東山温泉
新撰組副長「土方歳三」は、幕末の新政府軍と戦いながら北上します。 宇都宮城の戦いで足を負傷した土方歳三は、傷に良く効くとされる東山温泉で療養したと伝えられています。
土方歳三が天寧寺に建立した「近藤勇の墓」
土方歳三は、会津療養の間に、天寧寺で「近藤勇の墓」を建立します。 「近藤勇の墓」には伝説があり、京都にさらし首になっていた近藤の首を、土方が齋藤一に取りに行かせ、 その首を、会津の地に葬ったとも、遺髪のみを埋葬したとも言われています。 「近藤勇の墓」を建立する際、土方をはじめ、齋藤一などのメンバーも天寧寺に滞在した記録が残っています。
細い山間の道ですが、天寧寺本堂まで車で入ることができます。しかし、本堂から近藤勇の墓石までの間は、お墓のあぜ道を歩くしかありません。案内看板を頼りに歩きます。夕暮れになると少し怖いかもしれません。近藤勇の他にも、会津戦争の責任者であった萱野権兵衛、そしてその次男郡長正のお墓があります。
天寧寺には、「会津士魂」の碑が作家早乙女貢の墓碑と並んで建てられています。
七日町通りに残る幕末の史跡
会津城下の七日町通りを歩きます。七日町通りは会津五街道のうち米沢、越後、下野(途中桂林寺通りを経由)の主要な街道となる城下町の通りで、江戸時代から昭和にかけて会津一の繁華街として賑わいを見せていました。その名残りは古い蔵や洋館、木造町家の建物に見ることができます。
幕末の志士が投宿した清水屋旅館跡
土方歳三は、宇都宮城攻防戦で足を負傷したあと、会津へ向かい清水屋旅館に投宿しました。土方はこの旅館で各地を転戦していた多くの新選組のメンバーと再会しています。また、長州の吉田松陰もその若き日に東北旅行に出かけ、途中、会津のこの旅館に立ち寄っています。当時は三階建ての格式の高い旅館で、多くの名士たちが投宿しましたが、昭和初期に取り壊され、現在は大東銀行会津若松支店となっています。
会津東軍墓地のある阿弥陀寺
七日町駅の近くにある「阿弥陀寺」の境内に「会津東軍墓地」があります。
阿弥陀寺は会津戦争の東軍戦死者1281体が埋葬されています。阿弥陀寺の他に長命寺に145体が葬られています。この二つの寺以外には埋葬が許されませんでした。
9月22日の戊辰戦争集結後、西軍の命で放置され、触ることも許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのが明治2年2月のことです。
しかし、あくまでも賊軍としての埋葬で「戦死墓」の文字以外は許されませんでした。
右方の碑は「戦死墓」とありこの墳墓の表石です。左方の碑が「報国尽忠碑」で明冶十年の西南戦争で薩摩軍と戦って戦死した旧会津藩士の碑で、佐川官兵衛他71名の旧会津藩士の名が刻んであります。そして、後方の碑は、戦争の全責任を一身に受けて切腹した「会津藩相萱野権兵衛長修遥拝碑」です。
新選組三番隊組長「斎藤一」の墓
阿弥陀寺には新選組三番隊組長の斎藤一のお墓があります。斎藤一は、戊辰戦争で新政府軍が会津に攻めてきた折、負傷していた副長の土方に代わって指揮をとりました。
その後、斎藤一は「会津を見捨てることはできない」と、北へ向かった土方歳三と別れて会津に留まります。戦争終結後は藤田五郎と名を変えて、警視庁に勤務し、西南戦争で活躍します。大正4(1915)年に72歳で往生を遂げた斎藤は、後半生を会津人として生きた彼の希望により、ここ阿弥陀寺に葬られています。
鶴ヶ城唯一現存する遺構「御三階」
明治3(1870)年、新政府軍に解体された鶴ヶ城の小天守にあたる御三階は阿弥陀寺に移築されました。外見は三階建てですが、内部は四階建てになっています。最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、かつて鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使われていたと言われています。当時の鶴ヶ城の遺構として、現存する唯一の建物です。
白木屋漆器店
約300年前に創業された老舗漆器店。店内には食器からアクセサリーまで1000種類以上の会津漆器が揃っています。七日町通りに面した建物は大正3年に竣工した土蔵造り。
2階に上がると、超豪華な漆器美術品が展示されています。
戊辰戦争の刀痕が残る鈴木屋利兵衛
黒い土蔵造りの鈴木屋利兵衛は、安永年間の創業で、伝統工芸品会津絵やオリジナルの漆絵、民芸品を取り扱っている老舗商店。鈴木屋利兵衛は、一時、新政府軍の軍事基地として占拠使用されていたことから、焼失を免れています。店内にある柱には今も刀痕が残されています。
会津藩主松平容保の書がある「末廣酒造」
会津の地酒で有名な末廣酒造です。嘉永3年(1850)創業の酒蔵。魅力は、酒蔵を解説付きで見学できることです。もちろん、試飲もできますよ。
2階には、酒蔵を改造したコンサートホールまであります。今年の5月にはジャズ界のレジェンド渡辺貞夫さんの演奏があったそうです。また、大広間は当時のまま保存されています。奥座敷には藩主松平容保の書が掲げられています。
夕食は、会津一の海産物問屋 「渋川問屋」
阿弥陀寺の近くに、明治時代、会津一の海産物問屋だった「渋川問屋」があります。渋川問屋には、明治時代に建築された蔵や大正時代の木造家屋などが当時のままに残されていて、会津商家の面影をとどめています。
渋川問屋は、もともと郷土料理の材料を扱う海産物問屋だったので、本格的な町方料理をコースで楽しめる会津の老舗料理屋として今に引き継がれています。
渋川問屋の藍染の暖簾を潜ると、明治時代のままの設えが広がっていて、郷土料理にも期待が膨らみます。
予約をして来られる方がほとんどのようです。座敷も当時のままで、中央には囲炉裏端があります。
会津郷土料理は全てコースとなっています。今回は「祭り御膳 亀コース」をお願いしました。着座すると、すぐに「食前酒」と「先付け」、「ニシンの山椒漬け」、「ニシンの昆布巻き」が配膳されました。この後、「紅鮭寿司」や会津の冠婚葬祭時に出される「こづゆ」、極上の献上牛とされる会津塩川牛ステーキ等々をいただきました。
会津に残る幕末の史跡
戊辰150周年「白河・会津のみち」を歩く①
白河小峰城と戊辰戦争
今年(2018年)は、戊辰戦争から150年目の年に当たっています。戊辰戦争が起こったのは西暦で1868年。この年は元号が二つありました。慶応4年が9月8日に明治元年にかわったのです。そのため、この年に起こった戦争のことを十干十二支を用いて「戊辰戦争」という慣わしになっています。
ちなみに会津では、明治維新150年とは決して言いません。戊辰150年なのです。
今回は、戊辰150年の節目に、司馬遼太郎の街道をゆく33「白河・会津のみち」を歩いてみました。最初に訪れた白河は、江戸日本橋から奥州街道を歩いて27番目の宿場です。
白河の中心は、小峰城(白河城)跡です。古くから奥州の関(入口)として要衝の地とされてきました。慶応4年(1868)閏4月20日、この地で100日間にわたり激戦「白河城(口)の戦い」が起きました。
白河市が戊辰150年を記念に制作した映像です。ご覧ください。
白河小峰城の激戦
特に鳥羽伏見の戦いで朝敵とされた会津は、新政府軍(薩長土肥)の報復の対象とされ、東北諸藩に会津藩追討令が出されます。しかし、仙台藩をはじめ新政府軍に抗う東北諸藩は同盟を結び、結束して行動します。
戊辰戦争の2年前(慶応2年)、それまで白河藩主だった阿部氏が隣の棚倉藩に転封され、白河城は藩主なしのまま、二本松藩の預かりという形で戊辰を迎えます。
会津藩は、宇都宮方面に侵攻している新政府軍が奥州の要衝の地である白河に至るまでに白河城を奪取する計画をたてます。すると、守備を固めていた二本松藩ら東北諸藩は無抵抗で撤退します。実は、事前に会津藩と東北諸藩が密約が交わしていたのです。
白河城を巡る緒戦では、新政府軍に対して優位に立っていた会津藩でしたが、陣容の立て直しを図った新政府軍は、最新鋭の銃火器に物を言わせ、攻防戦を繰り広げます。
仙台藩や棚倉藩、二本松藩の援軍を加えたものの、会津を中心とする同盟軍は劣勢にまわり、落城します。同盟軍の死者は700余命にのぼりました。
この戦いにより、白河城内の建物の多くは焼失してしまいました。
平成3年、小峰城の三重櫓は木造で忠実に復元され、現在では、往時を偲ぶことができます。
700余名が亡くなった「白河口の戦い」のなかでも激戦地の「稲荷山」は砲撃、銃撃戦が激しく、多くの弾丸が周辺の杉林に撃ち込めれました。これらの杉を三重櫓の復元のために伐採、製材したところ、戦闘時の弾丸が数多く発見されました。この弾丸の跡は1階の通し柱と床板に見ることができます。
戊辰の役古戦場(「白河口の戦い」)
次に訪れた場所は、最も激戦地となった稲荷山の麓です。慶応4年(1868)5月1日、一日で会津藩や仙台藩など奥羽越列藩同盟の諸藩700余命が戦死したとされています。一方、新政府軍の死者は10名でした。
のぼり旗には「白河戊辰戦争 甦る仁のこころ」と記されています。
戦死墓
この碑は、会津藩戦死者を弔うため、戊辰戦争後まもなく地元の人びとが建立したものです。
白河藩は藩主がいなかったため、戊辰戦争には参戦せずに済んだものの、戦場となりました。白河の庶民は、戦争の時は息をひそめて済むのを待ち、戦闘が終わると、そのつど両軍の戦死者を埋葬してきました。以後、ほとんど無縁仏になった戦死者の墓を150年間守ってきたのです。
田邊軍次君之墓
戦死墓碑の隣に「田邊軍次君之墓」があります。ここにも戊辰戦争の悲話が遺されていました。
長州大垣藩戦死六名墓(松並地区)
道を挟んで、向かいに新政府軍の長州藩士3名、大垣藩士3名の墓があります。
会津西街道「大内宿」を歩く
白河を後に、会津若松に向かいます。司馬遼太郎の「街道をゆく〜白河・会津のみち」と同様、大内宿を経由します。那須岳や旭岳が連なる奥羽山脈を抜ける国道289号線(甲子道路)の途中には長いトンネルがあります。その長いトンネルを抜け、下り切ると会津西街道(国道121号線)にぶつかります。土方歳三も宇都宮の闘いで足を負傷したあと、この会津西街道を通って会津鶴ヶ城に入りました。
このみちは会津と日光をつなぐ街道でもあることから、会津の人は「日光街道」とも呼んでいます。また、国道121号線は、会津鉄道線と並行していて、途中には「塔のへつり」や「芦ノ牧温泉」などの有名な観光地が集積しています。
宿場の女将さんが、乾ききった土の路面に長い柄杓で打ち水をしてくれています。大内宿は、江戸時代の宿場がそのまま残されていて、まるでタイムスリップしたような気分に浸ることができます。
江戸時代、この街道は、会津から越後や関東に出るための裏街道としてつかわれてきた。主として、この裏街道は会津藩の廻米(かいまい)を江戸に送るための道で、宿場はその荷役をつとめる問屋の働きをつとめていた。(「街道をゆく」)
江戸時代のこの宿場の暮らしは、半宿半農だったことが、明治後に幸いした。一戸あたり平均二反歩ほどの水田と、全体で七十町歩もある畑が、人びとの暮らしを支えた。明治後、宿場は廃れた。特に明治のある時期に他に道路ができたため、大内宿は孤立してしまった。それでもなお村の旧観が残っているのは、奇蹟に近い。(「街道をゆく」)
浅沼食堂の「冷やし宿場そば」
宿場の端から端まで歩き、突き当たりにある立派な棟の「浅沼食堂」で昼食をとります。
浅沼食堂さんの店内です。冷房はありませんが、縁側から吹き込む風がとても気持ち良いのです。
ヤマメ料理もあるので、夏でも囲炉裏が焚かれています。
大内宿というと、箸の代わりにネギを使った「ネギ蕎麦」が有名なのですが、今回は、浅沼食道で一番人気の「冷やし宿場そば」を頂きました。なめこ・大根おろし・山菜・かつお節が入っていてとても美味しいですよ。900円です。
大内宿で最も高台にある浅沼食堂の縁側から撮った一枚です。
食後、浅沼食堂の裏手にある石段を上がり社にお参りします。
大内宿見晴台
社の並びに大内宿全体が一望できる大内宿見晴台があります。大内宿にお越しの際にはオススメのビューポイントですよ。このあと、一路「会津鶴ヶ城」を目指します。