日光街道を歩く1-① 江戸日本橋から千住宿
江戸日本橋
日光街道は魅力満載のベストコースです
日光街道の特徴は、日光東照宮への街道として歴代将軍の社参、諸大名の参詣、そして庶民の物見遊山で賑わい、発展したこと。また、一方で幕末には旧幕府が倒れるきっかけとなった鳥羽・伏見の戦いに続き、小山の戦い、宇都宮城の戦いなど一連の戊辰戦争の舞台ともなった街道でもあります。そういう意味では、徳川家の盛衰を象徴する街道とも言えるかもしれませんね。
街道歩きにとって日光街道はとても歩きやすいコースの一つです。その理由は、厳しい山道や峠道がなく、概ね平坦な道であることです。また、街道沿いにはJRや東武鉄道がたえず併行して走っていることから、アクセスにも、飲食にも支障がなく、街道デビューに挑戦しようと思っている方にとってもベストコースと言える街道です。
観光という面でも、華やかな江戸日本橋からスタートし、旅の後半は、日光街道の象徴でもある日光杉並木を歩くことでクライマックスを迎え、荘厳な日光東照宮で締めくくるという醍醐味も味わえます。
さらに、2018年は、明治維新・戊辰戦争から150周年に当たります。日光街道を歩きながら、北関東、東北各地で起きた戊辰戦争の足跡を目にすることができるところも見逃せません。
江戸日本橋から千住、草加、古河、宇都宮を経て日光までの二十一次、約150㎞の日光街道ウォークのスタートです。
出発地点は、五街道共通のスタート地点、江戸日本橋から。そして、1日目のゴールは草加宿です。
澄み切った青空に桜が満開です。心配なのは、この時期にピークを迎える花粉症。ティッシュを片手にさぁ出発することにします。
日本橋三越本店の右側を真っ直ぐに進みます。
日本橋室町の辺りは、江戸時代、魚河岸があったことから鰹節問屋、海苔問屋、芝居小屋などが軒を連ね、賑わいをみせていたエリアです。
現在は、coredo室町が賑わいをつくっています。
室町三丁目の交差点を右折して、小伝馬町、浅草橋方面に直進します。
途中の昭和通りは地下通路を潜って渡ります。江戸時代からの老舗「小津和紙」のビルを通り過ぎます。
「日本橋」界隈や「小津和紙」は、東野圭吾さんの小説や映画で大ヒットした「麒麟の翼」にも登場してきますね。小津和紙では和紙の紙漉き体験や小津資料館の見学も行なっています。
江戸伝馬町牢屋敷跡の大安楽寺と十思公園
旧日光街道の近くにある「大安楽寺」は、江戸伝馬町牢屋敷跡の前に立地していて、境内には刑死者を供養する「延命地蔵尊」があります。
江戸伝馬町牢屋敷跡は、現在「十思公園」として、都心のサラリーマンの憩いの場所となっています。
公園内には、安政の大獄で斬首された吉田松陰の「終焉之地碑」があります。多くの幕末の志士たちが斬首された安政の大獄は、幕末維新を迎える大きな時代の節目となりました。
伝馬町で行われる処刑の合図となった「石町時の鐘」が公園内にあります。また、隣接の十思スクエア別館には小伝馬町牢屋敷展示館があり、自由に見学することができます。
公園内にある鐘(写真)は、刑の執行当日、刻限を意図的に遅らせたことから「情けの鐘」と呼ばれていたものです。
桜に染まる神田川
歌川広重は、名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いていますが、今も衣料繊維問屋が軒を連ねています。
その先に、浅草橋があります。この写真は浅草橋から神田川を撮ったものです。桜の花びらが川面に季節感を漂わせています。神田川は、この先で隅田川に合流します。
浅草橋の袂に浅草見附跡があります。江戸城外の城門で「浅草御門」と呼ばれていた場所です。振袖火事の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱獄したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため2万人以上の犠牲者が出ています。
伊能忠敬も通った浅草の天文台痕
蔵前一丁目の交差点に「天文台痕」の解説板があります。
天文方の高橋至時が天文観測を行なっていた所です。高橋至時は、17年をかけて日本全土を実地測量し、初めての実測による日本全図を書いた 伊能忠敬の師匠でした。
伊能忠敬も日々、深川の自宅からここまで通って学んでいたのでしょう。伊能忠敬はここで学んだ技術を元に、日光街道から奥州街道を通って、東北、北海道へと実測の旅に出掛けています。今年は、伊能忠敬没後200年の年。
浅草橋の辺りは、人形の久月などの老舗や、プラモデルやオモチャの問屋が軒を連ねているエリアです。バンダイの本社もここにあります。
江戸時代からの老舗「駒形どぜう」
「駒形どぜう」は、創業享和元年(1801)どじょう料理の老舗。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どぢやう」の4文字では縁起が悪いと「どぜう」の3文字に改称したと伝えられています。
日本一の観光名所「浅草寺雷門」
駒形橋西詰の交差点を直進すると浅草寺雷門の正面に着きます。今日も外国人観光客で賑わっています。
隅田川の桜祭りと東京スカイツリー
この写真は、セーヌ川から見たエッフェル塔の写真。ではありません(笑)。隅田川から見た東京スカイツリーの写真です。この日、隅田川ではちょうど「桜橋桜祭り」が行われていました。
意外と知られていませんが、隅田川堤に桜を植えたのは、八代将軍徳川吉宗なんです。
ユニークな寺院「待乳山聖天」は良縁成就のパワースポット
待乳山聖天は歴史も古く、由緒ある寺院ですが、ユニークなのは、お供え物が「大根」というところ。寺務所で大根が売られているのです。大根には、心の迷いを取り除き心身の健康と良縁成就、夫婦和合にご利益があるそうです。隠れたパワースポットですね。
寺務所でお供え物として売られている大根は時価です。野菜が高い時は400円でした。
大根の絡み具合から良縁成就、夫婦和合にご利益があることがわかります。やはり、パワースポットですね。
社務所の横から広々とした庭園に降りることができます。しだれ桜が満開でした。浅草の人力さんが必ず寄る隠れた名所。
池波正太郎生誕地跡
待乳山聖天の入口近くに、小説「鬼平犯科帳」で有名な池波正太郎の生誕地跡があります。浅草には「池波正太郎記念文庫」もあるので、併せて見学してみるのもオススメです。
旧日光街道に沿って歩いていくと、「山谷堀公園」があります。
江戸時代には、新吉原遊廓への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言っていました。
界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったということです。
招き猫がシンボルの今戸神社は縁結びの神様
山谷堀の近くに「今戸神社」があります。特に女性に人気の縁結びの神様です。待乳山聖天に並び、こちらも浅草の人力さんが必ず案内している場所です。
この辺りは「今戸焼発祥之地」で、江戸時代に初めて「招き猫」が作られたことでも有名なんです。本堂でお詣りすると子供の背丈ほどある大きなペアの招き猫が鎮座しているのが見えますよ。今戸神社のシンボルになっています。
とても愛嬌のある招き猫が人気を博している由縁でもあるのでしょうね。猫好きにはたまりません。
沖田総司の終焉の地
「今戸焼発祥之地」碑の隣に、新撰組一番隊長「沖田総司終焉之地」碑が建っています。今戸神社と新撰組に何やら関係がありそうですね。
解説板によると、「沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて沒したと伝えられている」と書かれていました。
松本良順は徳川家茂の侍医として京都に帯同していた時に新撰組の治療にも当たっていたので、縁のある新撰組が江戸に戻ってからも結核の沖田総士の治療を続けていたのではないかと思います。ちなみに、松本良順はこの後、戊辰戦争時に従軍し、幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏しています。
あしたのジョーの「泪橋」
旧日光街道を進むと、「泪橋」の交差点に着きます。この先にある小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをした所から付けられているそうです。あしたのジョーが今にも登場してきそうな雰囲気のある街並みです。
南千住駅に向かう跨線橋から撮りました。前方に見えるのは高層マンションが建ち並ぶ北千住駅周辺です。この辺りの街並みは近年大きく変貌を遂げています。
小塚原刑場跡の首切り地蔵
跨線橋を下りると、小塚原刑場跡があります。処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂っていたそうです。延命寺にある「首切り地蔵」は寛保元年(1741)に刑死者供養のために造立されたものです。
幕末の志士とプロレスの神様の墓
回向院には、安政の大獄で斬首された吉田松陰の墓や蘭学者杉田玄白等が刑死者を解剖した場所であることから翻訳した「解体新書」のプレートが掲げられています。
幕末の志士たちが眠る墓地に、何とプロレスの神様「カールゴッチ」のお墓がありました。力道山とも戦い、アントニオ猪木氏等が尊敬していたジャーマンスープレックスの創始者のカールゴッチです。
亡くなったのは、2007年7月28日だったのですが、その10年後に日本に移住していたことから新しくお墓を建てられたようです。墓前には高価なワインボトルがいくつも並んでおりました。
カールゴッチの暮石の隣には、鼠小僧次郎吉の墓があります。
その隣には、幕政の改革で開国論を唱え、安政の大獄で斬首された福井藩奥医師の橋本左内の墓があります。
その隣には、同じく安政の大獄で斬首された吉田松陰の暮石があります。現在は、松陰神社に遺骨が収められているそうです。
解体新書はここから
蘭学者杉田玄白、前野良沢が刑死者を解剖し、翻訳した「解体新書」のプレートが掲げられています。蘭学の事始めの場所ですね。
彰義隊が眠る円通寺
上野戦争の弾痕跡が残る黒門
上野戦争で亡くなった彰義隊の遺体はそのまま無残にも放置されていました。見かねた円通寺の住職はその遺体を葬い、この地に埋葬されました。多くの旧幕臣の墓石や慰霊碑がここに眠っています。
また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
南千住の素盞雄(すさのお)神社
再び旧日光街道に戻り、南千住の交差点の直近くに「素盞雄(すさのお)神社」があります。境内には、「小塚原」の地名の由来となった「小塚」や大銀杏、文政三年(1820)に建立された「芭蕉旅立記念碑」などがあります。
ここで、隅田川に架かる千住大橋を渡ります。この橋は昭和2年に造られたものです。
芭蕉「奥の細道」旅立ちの場所
千住大橋を渡り終えると「奥の細道矢立初めの地碑」があります。芭蕉は深川から舟で千住に着き、「奥の細道」へ旅立ちます。その際に詠んだ句は、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」。ようやく千住宿に着きました。