日光街道を歩く5-①間々田宿から小山宿

間々田宿

2018年5月21日、朝8時30分にJR間々田駅を降り、駅近にあるコンビニのイートインで100円ホットコーヒーと菓子パンをかじりながら、今日のウォーキングの作戦をあらためて練ることに。

まずは、「ちゃんと歩ける日光街道」(山と溪谷社)を開き、各宿場の見所を押さえ、ざっと歩行距離と到達時間を測る。およその時間は、無理のない時速4キロで計算することにしています。「今日の見所は、小山評定と戊辰の爪跡かな。次回の日光までの行程を考えると、何としても今日中に雀宮宿まで行きたい」と思いながら、旅支度を整えます。

小山市車屋美術館と小川家住宅

月曜日ということもあって、最初の訪問地「小山市立車屋美術館」は休館でした。

小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代にかけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。

 

 

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 休館ということなので、失敬して門扉の上から小川家住宅を撮ることに。

美術館では、古美術から現代美術まで幅広く小山市ゆかりの美術を紹介しているそうです。美術館は企画展により観覧料が変わるそうです。

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 間々田八幡宮

国道4号線をしばらく歩くと、沿道に「間々田八幡宮」の鳥居が建っています。

「間々田八幡宮まで500m」と表示。往復1キロということなるので少し考える。解説には、「嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なった」と書かれている。行くしかないでしょう!

曲がりくねった小道をしばらく歩くと、一帯とは隔絶された緑の濃い鎮守の森「間々田八幡宮」が現れます。

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 間々田八幡宮の創建は古く、今から千三百年前の天平年間に勧請されています。文治5年(1189)には、陸奥泰衡の乱に征伐の軍を率いた源頼朝が戦勝を祈願して松樹を植えたと伝えられています。

頼朝お手植えの松は四代目となって、ひょうたん池の縁にその姿を見ることができます。春にはひょうたん池の桜はライトアップされるようです。

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間々田駅前のロータリーで見かけた像「間々田のジャガマイタ」は、この神社に起源がありました。

約400年前から伝わる奇祭「 ジャガマイタ」は、田植えの季節を前に、五穀豊穣と疫病退散を祈願するお祭りとして伝承されています。

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 嘉永4年(1851)、日光東照宮大修理を手掛けた宮大工が社殿の再建を行なったされる拝殿には見事な彫刻を見ることができます。

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 浅間神社の参道脇に「千駄塚古墳道標」があります。

履屋内には青面金剛庚申塔天保15年(1844)建立の六臂馬頭観音像が安置されています。

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「門外不出」の酒蔵「西堀酒造」

 間々田宿に酒蔵がありました。西堀酒造です。創業明治5年(1872)銘酒「若盛」「門外不出」「奥座敷」の蔵元です。

酒蔵の建物は国の登録有形文化財に指定されています。

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 沿道に安房神社の鳥居があります。天慶2年(939)藤原秀郷平将門討伐に際し、戦勝を祈願して守護神としています。

小山氏や古河公方の信仰も篤かったそうです。「モミの群落」は市の天然記念物に指定されています。

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 国道4号線を離れて間も無く、立派な長屋門が見えてきます。

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小山宿

 国道50号線の高架を潜りしばらく行くと、天満宮があります。石鳥居は享和3年(1803)の建立です。この辺りが小山宿の江戸南口で、土塁や矢来柵がありました。

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小野塚イツ子記念館

 小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」の商標でしょうゆを醸造していました。2003年に死去した故小野塚イツ子さんの遺言で土地・建物等を小山市に寄贈され「小野塚イツ子記念館」として、れんが煙突、土蔵、旧しょうゆ工場は歴史遺産として保存されています。

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持宝寺の梵鐘

 持宝寺は、八代将軍吉宗の日光社参の際に休憩所になっていました。

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 境内にある梵鐘は寛政4年(1792)の鋳造で、市内では戦前に造られた梵鐘はここにしかありません。他は、第二次大戦の時に金属供出のため失われています。

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須賀神社

須賀神社に来ました。「平将門の乱」を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が天慶3年(940)京都八坂神社を勧請し小山城の鎮守としています。

石田三成との決戦を決意した家康は、須賀神社に戦勝を祈願したと伝えられています。

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小山評定之碑

関ヶ原の戦いのドラマで必ず登場する舞台が小山。 鳥居の横に「小山評定之碑」があります。

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 参道の横にある石鳥居は承応2年(1653)に建立されています。

県内では日光東照宮にある四基の鳥居に次ぐ歴史があり、小山市指定文化財となっています。

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史跡小山評定跡と小山御殿跡

小山市役所庁舎の前に「史跡小山評定跡」があります。

ご存知の通り、小山評定は、1600(慶長5)年7月25日、会津の上杉討伐のために小山に来た徳川家康が、石田三成挙兵の報を受け、諸武将を集めて今後の方針を諮った軍議のことです。

この軍議で各武将が家康に従うことを誓約し、関ケ原の合戦に臨むことを決めたとされています。 

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小山評定が行われた縁起のよい場所として、徳川将軍家の日光社参の際の宿として「小山御殿」が置かれた場所でもあります。

見るからに老朽化している小山市役所庁舎の耐震化は大丈夫かなと思ってしまいました。庁舎の垂れ幕には、様々な大会に挑む小山市の代表スポーツ選手の名前が掲げられています。

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 小山市役所の隣に小山御殿跡があります。

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小山城(祇園城)址

 小山御殿の先に「小山城址」があります。小山城は、藤原秀郷の築城に始まり、小山氏の居城になった場所です。別名「祇園城」と呼ばれています。

徳川の時代になると譜代の本多正純が城主となり城下の整備をしましたが、元和5年(1619)に宇都宮城へ移封となり、小山城は廃城となっています。

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現在、小山城趾は城山公園として利用されています。 

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 小高い小山城址から望む思川。

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